自由経済研究、第47号を刊行いたしました。

ご案内
自由経済研究、第47号、2018年4月25日発行を刊行いたしました。
目次
貨幣改革の制度論的次元
–モーネタティーブ・イニシアティブを巡って  森野榮一
シルビオ・ゲゼル派の自然的経済秩序運動史
(一八九一–一九九二/三年)(2)      G・バルチュ
札を配りなおす–FDRモメント(3)      森野榮一
発行
ぱる出版
〒160-0003 東京都新宿区若葉1-9-16
電話 03-3353-2835
FAX 03-3353-2826
定価 本体1000円+税

金貨

森鷗外の作品に「金貨」というのがある。鷗外のものだからお読みになったことがある人もいるかもしれない。

左官職人の八が駅で見かけた立派な人物に惹かれ、後をつけ、その屋敷に泥棒に入る。

家人が寝静まった頃、屋敷内を物色するのだが、机の引き出しが目に止まり、中を探ると手紙や封筒ばかりだが、なかに銀金物を取り付けた金入れをみつける。中にはじゃらじゃらいうものが入っている。金入れは屋敷の主人が欧州に出かけた折にパリで買い求めたものだ。八が金入れをあけると貨幣が入っている。貨幣は大小さまざま。しかし八には見慣れぬ貨幣だ。それらのなかに八は金色燦然たる貨幣をみつける。

そうしてこれさえ取ればいいやと、腹掛けに入れる。それは八には光る金貨に見えたのだ。だが八は家人に見つかってしまう。

何をとったのか、家人が調べると、引き出しにあった西洋の貨幣がない、そしてなくなったのはそれだけだと。

主人はおかしさをこらえながら八を問いつめる。八は、「旦那、済みません」と罪を認める。

「皆外国貨幣だな」と家人がいう。

主人は「洋行したときに集めたのだが、Poundや二十Francsや二十Markのようなものは、入用なときに両替して使つてしまつた」といい、つまらない銀貨ばかりが残ったのだという。そのなかに黄色いのが一つ。八が金貨と思ったのがあった。

しかし、それは、「黄いろいには相違ないが、これは只のsouですよ」と家人が指摘する。主人は、「はゝゝゝ。確かにSouだ。大枚五Centimesだ」と。

Sou(スー)は昔の(フランス革命以降の)フランスの貨幣、それも小銭だ。小銭がアルミ製になる前の銅製の硬貨で、1フラン=100サンチームで、5サンチームに相当した。まあ、いまの五円玉くらいのものかもしれない。

八は主人と家人のやりとりをきいて、「黄いろく光つてゐるのが金貨でないといふことだけは分つた」。

八は主人に「お前は好いから行け、泥棒なんぞになるものぢあないぞ」といわれて放免される。

貧しい者がそうそう金貨など手にしはしない。八が赤金の銅貨を金貨と間違えたのは仕方がない。

ぼくは、ビットコインのようなデジタルゴールドを資産と思い込んで人が殺到しているのをみると、この作品を思い出してしまう。

デジタルゴールドがデジタル・スーであることに、八が笑われながら気付かされたのと同じように、人は気づかされることになるのかもしれないと。ビットコインも5サンチーム銅貨かもしらんよ。

世界の支配者

Der Herr der Welt

なんてったって、世界の支配者はカネ。まんがに描かれた王様はFranken(フランケン)と書いてあるからドイツ中南部の王様ということだろうけど、フランやポンド、レンテン・マルク、円、ドルとカネの名も書いてあらー。戦間期、自由経済派のパンフレットから。

スイス自由経済同盟提案の自由貨幣(1938年)

カンタンにいえば、インフレのときはカネ以外の資産で持っているほうが得。

だってオカネの購買力が低下して、オカネの値打ちが下がるから。

デフレのときはカネでもってるほうが得。

だってモノなどカネ以外の資産の値打ちが下がっていくから。カネを使うのを先送りするほど得。

だからカネ持ちはカネを握って使わないでいるほど得をする。

カネっていう回りものが回らなくなる。景気は悪くなる。びんぼうにんはそもそもたいしたカネはもってないからデフレで得することはない。くわえて景気の悪化の直撃もうける。ヤだね〜

じゃあ、カネを使わないで貯めこんじゃったら税金がかかるようにしようじゃないか、ならば使うよね、ってんで考案されたのがスタンプ貨幣。これを経済を停滞から解放し、びんぼうにんを貧困から解放するって期待をこめて、自由貨幣ともいったし、だんだん値打ちをなくしていくんで消滅貨幣ともいった。ケインズはこれをカネにかける持越税っていってた。

原理はかんたんで、添付したのは、したもの(実施はされなかったようだ。画像にもMusterってあるから見本)だけど、オカネの額面に印紙を貼る欄がある。1000フラン札で、指定の期日(月一回)が来たら5フランの印紙を買ってきて貼らないと、その日以降は使えない。5フランの印紙にはドイツ語では「溜め込み税」、フランス語で「(流通)加速税」と書いてある。1000フランに対して5フラン掛ける12で60フラン、つまり年率6%のマイナス金利が名目利率で成立するってこと。

これは金持ちにとっては最悪の税だ、なんていわれた。でも、税金をはらいたくなきゃあ、使えばいいだけ。もっとも優しい税なんだ。でもいつも金持ちは反対するんで、なかなか実施されない。デフレのときこれをすればいいのにね。

政府には印紙税売上収入も入って公共的な支出に使える。一年がおわって印紙を貼り切った札は翌年、新しい1000フラン札に交換してもらう。

でも、反対する人は、印紙貼るのがメンドーとかいろいろ理屈をつける。

でも日本人だって印紙のような証紙をお札に貼って使ってた経験はあるんですよ。新札の印刷が間に合わなくて旧札に印紙様のものを貼って使った。敗戦後の昭和21年、金融緊急措置令が出て新円切り替えがあったころ。

その話は、別口で〜

現金擁護論

はからずも現金廃止論が現金の優越性を指摘する擁護論を喚起している。
ECBのドリス・シューネバーガーの議論をハンデルスブラットが伝えている。

500-Euro-Schein: EZB-Expertin steht zum Cash
http://www.handelsblatt.com/finanzen/vorsorge/altersvorsorge-sparen/500-euro-schein-ezb-expertin-steht-zum-cash/13430906.html
・現金と犯罪の間には明白なリンクは存在しない
「犯罪者は自動車や携帯電話を使っているが、誰も真剣にその使用を制限しようとは考えていない」

・決済の代替手段とは異なり、データ保護という問題に直面しはしない

・インフォーマルな経済の規模と現金の間には統計的に実証可能なリンクはない

なぜ現金が選ばれるのか
・銀行システムの健全性に疑問がもたれる時代に個人資産を確保する目的を果たす
・現金の価値保蔵機能は正当であり、いっそう重要になる

通貨の信頼性が損なわれるべきではない
・クレジットカードや電子決済があるが、現金が最重要な手段
・現金があればこそ、競合的な電子形態の決済での効率性追求が動機づけられる
・現金はプライバシーの懸念なく即時決済が可能、全く信用調査も必要としない、支出行動の良好な制御が可能。

金と云ふもの

今日の引用、カネについて、2016-04-12

諸岡存の「精神病学から見た邪教迷信」(仏教社会学院編、『新興類似宗教批判』所収、昭和11年)から引用。
昭和11年に行われた講演からなので、時代的に今日からみると若干、言葉狩りの対象になりそうな表現があるが、わかりやすい主張。

「・・・何でもかでも金でやる為に今困つて居るのです。が、此の金と云ふものは価値のないものです。今金が非常に高くなつて居ますが、是を食つたつて美味くも何ともない。指輪にするとキラキラ光つて居るけれども、或る場合には邪魔になります。

そ れぢや紙幣はどんなものかと云ふと、不潔な物です。黴菌の凝りです。癩病の人も結核の人も持つた物です。此の札を非常に大切にして、それを貰ひたい為めに 孜ゝ(しし)営々として皆な働いて居るのです。其の汚れた札、不潔な札、癩病患者が持つた札、結核患者が持つた其の札でも、持つて行けば、お菓子も呉れる し、天丼もそれで配つて来ますから、「天丼を一つ呉れ」と汚れたのをやるのです。是は天丼が欲しい為めにやるのです。併し、此の世の中には悪政治家が沢山 出て来て、札の価値が無くなる。日本銀行が空つぽになると、独逸のやうに何もかも無くなつて了ふと、此の札は空になつて了ふのです。ですから、札其物が尊 いと皆様は思つて居るが、札が尊いんぢやない、国家が尊いのです。其の国家が背景にないと、札は価値がないのです。其の金を取りたい為めに、皆な働いて居 るのですが、其の金が尊いと思つて金の為に働いて居ると是はParanoiaです。今日の経済学は金貨本位です。金貨本位に考へなくては、法律も理財学も 成立たないのです。だから其の金貨と云ふものは、間違つた考から出発しているのです。金に値ひはないのです。全く値ひのないものを値ひのあるものと仮定、 約束、約束ぢやない勝手に決めたのです。それを我々は盲信して居る。何の為めにやるか解らないが、兎に角札を持つて行けば呉れるだらうと思つてやつて居る のですが、呉れない場合もある。其の札を良いものと思つて利息を付けて、其の利息の為めに働いて居る。皆様が働いて居るのは此の利息の為めに働いて居るの です。・・・」

汁講

地域通貨がたいそう耳目を集めていたころを思い返してみて、果たして地域通貨はその仲間を呼ぶ言葉を作り出すほどに、深さのある連帯を作りだしたのであろうか、と思うときがある。

というのも、柳田國男は、明治から大正にかけて、講から共済組合へと推移する地域社会の職縁や地縁などのさまざまな共同のあり方を研究するなかで、こう教えてくれていたから。

「”けやく”といふ言葉が東北地方などで友を呼ぶ語に用ゐられて居る。元は契約講の仲間といふ意味で、講中の者を呼び懸ける親しみを意味してゐるが、是は宛(あたか)も一つの兵営生活をした者が、戦友と呼び合ふのと非常に似てゐて、親しい愛情が含まれてゐる。尊敬しておやぢと呼んで居るところもある。漁夫などは互ひに”こて”と呼び合ふのも、御亭だか何だか知らぬが、元は講中仲間の親しみを現はす言葉に他ならぬのであつた。」(強調のルビがある箇所は” ”で引用者が囲った)
(柳田國男、「伴を慕ふこころ」、『明治大正史』世相篇所収)

講への関心や、なかには北米先住民のメンバの同等性を競い合い互酬性を特徴とするポトラッチなどまでもちだす人が地域通貨のなかにはいた。それへの連想から、一品持ち寄りの感じでポトラッチを理解する方もいた。しかし、それとの関連でいえば、たとえば、江戸時代の汁講について知る人はどれだけいたのかなと思う。近隣や仲間に食事を呼びかける人は鍋にいっぱいの汁だけ用意する。その他の食事は各自持ち寄るのだが、そこでの関わりの様子がポトラッチとはだいぶん違うのだ。

仲間を呼ぶ言葉が生まれこないうちは、そこでの共同は持続性のない、はかないものかもしれない。もちろん、共同は拘束的側面ももつから、はかない一期一会の自由を地域通貨の関係が理解していたとすれば、それは地域通貨のポジティブな一特質といえるかもしれないが、それでも、心持ちを同じくする者たちの呼びかけの言葉は生まれて欲しかったと思ったりする。

(森野榮一)