オタクが首相になった。日本の政治はますます酷い状態になるだろう。所信表明演説にも「守る」を羅列し、オタクぶりが表れている。首相はあらゆる分野に深い知識と見識を備え知を愛する人物でなければ務まらない。だが、石破首相は「守り」オタクであり、とうてい首相としての養育、教育を積んだとは思われない。だから、「守り」の連発ぐらいしか発することができないのだ。石破内閣は早晩、行き詰まることになるだろう。
守らなければならないのは、いつの時代でも同じで、子供、独り身、貧困者等の弱者である。そうした弱者に目をくれない自民党の暴政で過去30年間、いや戦後ずっと弱者は泣かされてきた。第2次大戦で国土は焦土と化し、ゼロからのスタートであったことが、経済成長を加速させた。さらに、家電や自動車といった大型耐久消費財の出現が、消費を高めた。だが、復興需要もなくなり、耐久消費財も普及してしまえば、それまでのような高度経済成長ができなくなるのは当然である。
財務省の『法人企業統計』によれば、全産業全規模の売上高はバブルが崩壊しつつあった1991年度までは一本調子で著しく拡大した。だが、それ以降は、ほぼ横ばいといってもよい超低迷状態がつづいている。時速100㎞で走行している列車に急ブレーキが掛かったようなものだ。1960年度と1991年度の売上高を比較すると32.4倍(年率11.87%)も急増しているが、1991年度と2023年度との比較ではたったの1.1倍(年率0.31%)しか増えていないのである。これが同じ日本経済かと見紛うほどの変わり方なのだ。
1991年度まで経済が好調に推移したのは自民党の政策が適切だったからではなく、復興などによってたまたま好景気を維持できただけなのである。真っ当な政治が行われていれば、戦後40年以上の間には、人口、食料、住宅、エネルギー、教育等についての土台が出来上がっているはずだ。目先の問題だけに振り回されて、長期の国の姿や基礎作りができていなかったから、1992年度以降、バブル崩壊を切っ掛けに、これほど長い期間、経済が凍り付いたように動かなくなったのだ。
戦後、自民党が政治権力を振るっているが、守るべきところを守らず、守らなくてもよいところを守ったことが、今日の悲惨な経済を招いたのである。これだけ、国民を難儀な目に合わせておきながら、過去を顧みることも、反省もせず、オタク首相が日本の舵取りをするという異常な政治状況に直面している。
バブル崩壊によって、100兆円を超える不良資産が発生したが、潰すべき金融機関を潰さず、のらりくらりの対応で、不良資産という膿を出すことに躊躇した。資本主義の大原則である素早く悪化した部分を除去することができなかったことが、経済を弱体化させてしまったのだ。行き詰まった会社が潰れるときには、ショックは大きいが、短期間に回復する。潰さずに延命させれば、長期間いつまでも経済に悪影響を与え続けることになる。未だにそうした膿が日本社会には残存しており、経済の足枷になっているのだ。
今も、福島第1原発がバブル崩壊並みの不良資産として国民の肩に圧し掛かっている。東電の遣り方では、事故処理は何百年経っても終わらない。100兆円ではなくその何倍ものカネが原発に吸い込まれていくのだ。六ケ所村の再処理工場も同じ経路を歩んでいる。できもしない方法をいつまでも続ける、という第2次大戦と同じ道筋を辿っている。もう少し早くポッダム宣言を受諾していれば、原爆は回避できたのだ。なぜこれほど日本の指導者は道理が分からないのだろうか。
「守る」というけれども、だれをどのようにして守るのか明らかではない。貧困層を守るのであれば、一時的な交付金などではなく、恒久的な支援が必要。前号でも指摘したが、消費税を廃止すれば、汲々としている家計には慈雨となることは間違いない。税制の改革などには一言も触れておらず、相変わらず大企業と米国だけに顔をむけているのだ。つまり、オタクが「守る」のは大企業と富裕層であり、米国との関係を「守る」のだ。まったく何も変わりはしないのである。おまけに選挙をやるのだから、政治どころではないのだ。
それにしても、過去の首相や国務大臣に就いた人を振り返ってみても、首相や大臣の仕事に取り組んでいけるだけの資質を備えた人物が就任していたかと言えば、否定せざるを得ない。各大臣の仕事でさえ指導者として振る舞うには、それ相当の修行が必要なはずだ。それが、知識も教養にも欠ける人物が突然、大臣に抜擢されるのだ。首相も自民党だけの狭い世界、しかも天皇崇拝、天皇カルトの世界観を共有している仲間内での選挙なのである。
今の、一般的な教育制度のなかからは優れた政治家や指導者は輩出することはできない。その人に本来備わっている資質に加えて、子供のときから指導者になるべき修練が欠かせない。弁護士や医者などは国家試験が課されているが、首相になる人には弁護士や医者をはるかに上回る知識と教養が求められるはずだ。ただの人では首相の座は務まらないのだが、資質とは異なる権力者の差配で首相は選ばれている。こうしたリーダー選びを繰り返しているから、政治は堕落し、経済も衰退しているのである。
自民党の派閥はなくなったというが、再び、金の力が人を呼び寄せ、金のあるところに議員が群がることになるだろう。自民党のなかで金を集める能力の違いが、派閥の力を決定付ける。金の力がすべてなのである。自民党の政治姿勢と全く同じ仕組みが、自民党自身にも組み込まれているのだ。
プラトンは『国家』で次のように言っている。
「国の守護者となるべき者には、……気概のあることに加えて、さらに、生まれつき知を愛する者でもあることが」。「われわれは一般の守護者たちのなかから、……全生涯にわたり、国家の利益と考えることは全力をあげてこれを行なう熱意を示し、そうでないことは金輪際しようとしない気持ちが見てとれるような者たちをね」。守護者は「彼らのうちの誰も、万やむをえないものをのぞいて、私有財産というものをいっさい所有してはならない」。「つぎに、入りたいと思う者が誰でも入って行けないような住居や宝蔵は、いっさい持ってはならない」。「暮らしの糧は……ちょうど1年間の暮しに過不足のない分だけを受け取るべきこと」。「共同食事に通って共同生活をすること」。「金や銀については、……彼らはその魂の中に、神々から与えられた神的な金銀をつねにもっているのであるから、このうえ人間世界のそれを何ら必要としないし、それに、神的な金銀の所有をこの世の金銀の所有によって混ぜ汚すのは神意にもとることである。なぜなら、数多くの不敬虔な罪が、多くの人々の間に流通している貨幣をめぐってなされてきたのであり、これに対して彼らが持っている金銀は、純粋で汚れなきものだからである。いや、国民のうちでただ彼らだけは、金や銀を取り扱い触れることを許されないし、また金銀かくまっている同じ屋根の下に入ることも、それを身に着けることも、金や銀の器から飲むことも、禁じられなければならない。このようにしてこそ彼らは、彼ら自身も救われるだろうし、国を救うこともできるであろう。けれども、彼らがみずから私有の土地や、家屋や、貨幣を所有するようになるときは、彼らは国の守護者であることをやめて、家産の管理者や農夫となり、他の国民たちのために戦う味方であることをやめて、他の国民たちの敵としての主人となり、かくて憎み憎まれ、謀り謀られながら、全生涯を送ることになるであろう―外からの敵よりもずっと多くの国内の敵を、ずっとつよく恐れながら。そうなったとき、彼ら自身も他の国民も、すでに滅びの寸前までひた走っているのだ。……これらのことを、法として制定することにしよう。どうだろうか?」(プラトン『国家』、藤沢令夫訳、岩波書店)。
国の守護者は貨幣や土地などの私有財産を認められず、共同生活を送らなければならないとプラトンは主張している。これほど厳格な制約下でも、なお守護者を目指すのが真の守護者なのである。特に、金については断じて扱ってはならない、貨幣を所有することになると「憎み憎まれ」「謀り謀られる」からだ。
現在の政治は金に塗れており、民主主義ではなく金権主義なのである。金を保有している富裕者と大企業が、自民党の支持者なのだ。だから、自民党は彼らが潤う政策を打ち出し、かれらのための政治を行なっているのだ。自民党は金塗れの状態から抜け出す意志もなく、ほとぼりが冷めれば、派閥は復活し、金が政治を支配することになる。富裕層と大企業のための政治が強化され、弱者は政治の埒外に置かれ続けることになり、民主主義は弱者に適用されないことになる。今の民主主義は富裕層と大企業という特定の人たちだけの名前だけの制度と言えるだろう。
日本に輪をかけた民主主義崩壊国は米国だ。米国は民主主義でもなんでもない。企業からの巨額献金と企業ロビイストが米国政治を牛耳っている。超富裕層と大企業、特にウォール街が経済、金融、外交など主だった政策を支配しているのだ。大多数の米国民はつんぼ桟敷に置かれている。FRBはウォール街と完全に癒着しており、非民主化を推し進めている一機関なのである。政治=金の関係が強まれば強まるほど、民主主義は崩れていくことを目の当たりに見ている。