2024年5月15日まで岡山の備前へ窯焚きに行ってきた。窯は備前焼を焼く小型の穴窯で、約20日間焚いた。窯の構造は現在一般的な連房式登窯ではなく昔使われていた穴窯(2022年度時点の「備前焼窯設置届出状況」によると備前市にある窯総数は305基、そのうち228は連房式登窯、15が穴窯)。備前市にはその窯址がいくつも残っているが、調査されたのは一部にすぎない。なかでも、伊部駅の南にある広大な斜面に築かれていた10基以上の南大窯には圧倒される。大きいのは全長50m超、最大幅5mといったとてつもない代物である。私が手伝って焼いている窯は長さ8m、最大幅1.5mほどだから、体積を比較すれば大人と赤ちゃんくらいの差がある。このばけもののような窯を焚いていた陶工からみれば、あまりにも今の窯は貧弱で、こんな窯で焼けるのかと不思議がられそうだ。
連房式登窯が備前に登場したのは江戸時代も末の天保2年(1831年)で、それまでは穴窯で焼かれていた(大正以降はほとんど小型連房式登窯)。穴窯が消滅したことで、古備前のような魅惑的な焼けの備前焼は途絶えてしまった。穴窯で焼き締めることによってのみ、得も言われぬ備前焼が出来上がるのである。伊部の旧山陽道の店に飾られている甕の焼けのなんと言おうか、焼けでしか絶対に出せない不思議な色調に見惚れてしまう。だが、現在の焼けは、そうした甕の焼けとは異なり、これが同じ備前焼かと見紛うほどである。
連房式の部屋がいくつもある窯では炎はまっすぐに進まず、上に下へと移動するあいだに炎の勢いはすぐに痩せてしまい、器物に好ましい炎が当る機会は少ないのである。炎はまっすぐ進むことによって良い炎が作られ、そうした良い炎が当る器物がすばらしい作品になるのだ。
穴窯は斜面の傾斜を利用して、地面を少し掘り下げ、その上にアーチ状の屋根を竹で組み、藁を混ぜた土を塗り付け、形を整えれば出来上がる。穴窯を作っても耐火煉瓦のような工業製品を壁に貼った窯を作ったのでは、穴窯は能力を十分に発揮することはできない。土は熱を吸収するが、耐火煉瓦は熱を弾く。窯はあくまでも土で作り、土の窯で土を焼くこと、材質が同じであることが大事なのである。また、穴窯でありながら耐火煉瓦製のりっぱな煙突を付けている場合がほとんどだが、これも不用、なぜ昔の古備前が作り出された煙突のない煙出しを備えた窯を踏襲しないのか不思議でならない。備前焼の諺に「窯焚きはものを焼くより窯を焼け」とあるが、これは窯のすべてが土で作られていたからいえるのであって、耐火煉瓦を使用していたのでは当てはまらない。
穴窯は炎がまっすぐに進むので直炎式とも言われているが、まっすぐ進むだけに最も上質な炎が当るところは限られている。ある一点、あるところ、といった狭い空間に配置された器物は特別な焼け成りとなるのだが、それ以外のところは焼けの質が低下する傾向がある。しかし、今回の窯焚きの結果は、そのような穴窯の弱点を克服し、焚口(火前)から煙出しまでのすべての窯の領域で、さまざまな良い焼けのものが出てきた。
穴窯は優れものが焼けるけれども大半は不出来で不効率な窯だという評価が一般的。それに対して、連房式登窯は効率が良い、歩留まりで穴窯に勝っていると言われている。だが、今回の窯焚きの結果をみれば、そのような見方は一蹴される。
焼物は焼くことによって作り出されるものだ。備前焼のように釉薬を掛けずに、土を焼くことで出来上がる、極めてシンプルな焼物では焼くこと、焼き締めることが制作のプロセスで最大の難関作業であり、注力しなければならない最終段階の仕事なのである。この焼き締めのプロセスがうまくいくかどうかで、ものの価値が決まる。土作りから始まる窯詰までの長い労働が報われるかは、この窯焚き掛かっている。
だが、現在、この焼き締めるという最重要プロセスに真摯に取り組んでいる人が、どれだけ備前にいるのか、はなはだ疑問。というのは、今の備前焼で焼き締められ、土味が味わえるような優れたものには、とんと出会わないからだ。備前焼の真髄に迫ることができるのは焼くことを通してあり、姿形では到達することはできない。ましてや色彩に走ることなど備前焼からの逸脱であり逃避である。過去を振り返れば、備前焼の衰退期に当たる時代には、これまでも備前からの逸脱や逃避が試みられたけれども長続きはしなかった。備前焼は備前のすぐれた土を焼き締めることでしか作れないのだ。
備前焼の歴史を学ばず、古い良き備前を見ることもなく、自己流で我が道を進んで備前焼が作れるほど甘くも簡単でもない。約千年の歴史が備前焼にあるということを肝に据えて置かねばなるまい。「過去の作品を踏まえぬ独自性など、瞬間的に持て囃されることはあっても、長い目で見れば所詮は作者の独りよがりにすぎない」(柳広司、『風神雷神』、講談社、2017年)のである。千年の歴史は重い、その過程を無視して、かってに備前焼を始めることはできない。そのようなことをすれば、すぐに行き詰まる。
「美術品では古いものほど生き生きと強い新しさのあるのは言ふまでもないことでありまして、私は古いものを見るたびに人間が過去へ失って来た多くのもの、現在は失われてゐる多くのものを知る」(川端康成、『反橋』、1948年)ことができる。現在、忘れられ、失われているものが古い時代のものにはいくらでもあり、手引きになるのである。回りくどいような方法と取られそうだが、結局は、古典を学ぶことが早道なのであり、王道なのである。
歴史を学ばなければならないのは備前焼だけではなく、あらゆる分野について言えることだ。私が関わってきた経済学とて現在の流行をいくら追っても、なにも出て来はしない。ケインズでさえも『一般理論』(1936年)に辿り着くには、16世紀、17世紀の書物を渉猟しているではないか。ケインズに勝るような人はほとんどいないのだから、もっと謙虚になり、備前焼の歴史を抑えておくべきだ。
アイデアやヒントが浮かんでくるのは古典なのだ。現在生存している人の書物や工芸からは、ほとんど手がかりを掴むことはできない。備前焼の場合は現に鎌倉、室町、桃山の優れた古典が現存しており、それらの名品をお手本にすることによってのみ、備前の創作活動は充実し、また発展していくのである。何事を始めるにしろ、学ぶことがまず一歩となる。この学ぶという意味は真似ることであり、その段階を経なければ、その後の独自性も発展もないのである。
最初、焚口の手前でちょろちょろ、徐々に焚口の中へと薪をくべていき、数日後、完全に焚口のなかまで薪を挿入、そして入れる本数を増やしていく。一気に5本とか10本を燃焼室まで入れる。焚口は30cmに満たない半円形で薪を入れるのに苦労する。温度計は使わないが時計は使う。
煙出からの煙をみていれば、くべなければならないタイミングはわかる。薪をいれたときは酸素不足になり煙がもくもくと出るが、だんだん煙の量も少なくなり、色は薄くなる。そのうちほとんど煙は見えなくなる。完全燃焼しているのだ。入れた薪が完全燃焼し、燃え尽きれば、新たな薪を投入しなければならない。こうしたことの繰り返しを延々と続ける。煙を出し、完全に燃えてしまえば、また薪をくべるというプロセスの中で、器物に煤などが付着するのだが、より厚く付着させることによって模様、景色により趣が表れる。これには時間が掛かる。窯焚きに、より長い時間を掛けることによって、すばらしい焼き成りとなるのだ。
1週間程度の窯焚きでは付着物の量はたかが知れており、古備前のような焼けには絶対にならない。1週間程度の窯焚きでは短期間に温度を上げるため、付着物が着くひまもなく高温に到達してしまい、表面だけがつるつるに焼け、土味のまったくない味気ないものになってしまう。
長時間、低温でじっくり焼くことが良い備前焼を作り出すコツなのだ。「炉圧」を高くでき「水分」の多い「穴窯」が長時間低温焼成に最適な窯なのである。短期間に高温までもっていく焚き方ではろくなものは作れない。表面だけ焼けて、なかは焼けていなくてすかすかとなる。割ってみればよくわかる。土管のようなものだ。
昔のものは焼けている。なかまで焼けているのだ。陶片をみれば一目瞭然、焼けているから軽くはない、重い。現在のものは一見よさそうにみえる、形で引き付けようと使い勝手などお構いなしに奇を衒う。素人だけでなく専門家と言われる人も形と色で誤魔化され、賞賛し持ち上げる。
人も表面が良ければ、特に、美女美男であれば、それだけでちやほやされる。焼物に例えれば表面が適当に焼けて、形が変わっているものだ。だが、表面や形で買い求めたものは直ぐに飽きが来る。どうもしっくりしない、どこか違和感を覚える等自分の目を疑いだす。
美人と一緒になっても、長く暮らす人ばかりではないという事実も、表面だけ整っていても、それだけでは長期の生活では付き合いきれなくなることを裏付けている。あるいは人事で新人を選ぶことを毎年繰り返し実施しているが、採用しても数年でかなりの人が辞めていく事態は変わっていない。出身校だとか風貌とか見栄え、とかの上っ面を重視して採用している結果なのだ。
焼物などとはくらべものにならない質・量において勝る人間の中身は分からない。ましてや人間が人間を評価することはとうてい適わず、今の採用方法は間違っているのだ。焼物はものであり、人間がものに対して価値判断をすることは許されるけれども、人が人を価値判断することは許されることではない。
焼物のなかまで焼けているかどうかさえも判断がつかない人が、どうして人の評価ができようか。焼物が焼けているかどうかは、長年焼物と真剣に付き合っていればわかるようになる。古典の名品を手に取ってみる、さらになかなかできないことだが、すきなものを求め実際に使ってみるということを繰り返しているうちに、だんだんものの本質に迫ることができる。特に無釉薬の備前焼は分かりにくい、分かったと思っていても分かっていない現実にしばしば出くわすからだ。古い名品にできるかぎり接することが、分かることへの近道である。さらに言えば、都会の人工的生活環境ではなく、自然美が身近に感じ取れる生活環境に身を置くことも、審美眼を育むためには欠かせない要素だと思う。
焼けているかどうかわからない人が、焼物をなかまで焼けるように焼くことはできない。備前焼を1週間ほどで焼くことは表面だけを焼いていることなのだ。なかまで焼きたいのであれば、もっと長期の焼成期間を要する。備前の土はそのように焼かなければ焼けないし、備前土の良さを引き出すことができないのだ。備前の土は耐火度が低いので高温短時間焼成ではなく、低温長時間焼成の焚き方でなければうまく焼けない。
窯は焚口から奥に向かって徐々に熱くなり、熱い熱は上部を通過し、天井がもっとも熱くなり、下に行くにしたがって温度は下がる。器物を床へ直接置いたり、ものの中にものを入れたりする。またサヤを使い、それを積み上げるようにして窯詰めする。上物を焼くには窯詰めも陶工の腕の見せどころなのである。穴窯は良く焼けるところが限られているので、そのうまく焼けるところへ大事な器物を置かなければならない。器物の大小、厚み等を配慮しながら置き方に注意を払い、まさにパズルを解くかのように、様々な要素を加味しながら窯詰していくのだ。
天井周辺が幾ら熱くなっても、ものは焼けない。できる限り窯床を熱くする工夫をしなければならない。炎を天井ではなく、窯床を舐めるように走らせることができれば理想的である。そのためには焚口、煙出、横口のそれぞれの口を調整しながら、炎が走る角度をできるだけ低くしなければならない。窯焚きのプロセスでは、窯の状態を適切に把握しながら、それぞれの口の開け閉めを適時に判断することが求められる。
窯焚きのプロセスの7~8割は低温焼成に費やされる。器物のなかまで焼けるよう蒸し焼きにするためだ。煙出を開けていれば、焚口から炎は窯のなかを器物に当たりながらもまっすぐに走り、煙出から出てしまう。炎は窯の中を素通りしているような状態であり、これでは器物への灰の付着や内部までの焼けは期待できない。できる限り熱い炎を窯の中に閉じ込めて、器物を十分な熱で包み込まなければならないのである。そのためには煙出をできるだけ塞ぎ、炎を窯に閉じ込める必要がある。加えて横口をどのように調整するかということも関わってくる。いずれにせよ、出口を塞ぐ状態にするのだが、塞げば当然酸素の量は少なくなり、燃えにくくなる。燃えにくくなれば、温度は下がり、焼けなくなる。蒸し焼き状態を維持するには、そうした矛盾に満ちた微妙な状態のなかで、焚いていくという作業なのである。器物のなかまで焼くための微妙な燃焼状態を探り見つけ出すしかない。窯の内部に炎や熱風をできる限り長い時間閉じ込め、窯の中を混沌とした状態にすることによってのみ、予想外の焼けのものを創作することができるのである。
現在、窯焚きにはたいてい温度計が使用されている。温度計を見ながら薪をくべているのだ。いつごろから窯焚きに温度計を用いるようになったのか定かではないが、今では温度計を使うのが普通になっている。今日は何度上げようと言う具合に、温度計と睨みっこしながら窯を焚いているのだ。温度計を眺めながら薪の量を増やしたり減らしたりしている。
温度計があれば、だれでも窯は焚けるのだ。窯焚きといっても陶工が自ら判断し、焚いているのではなく、温度計に使われているといえる。温度計をみながら焚いていたのでは、毎回ほぼ同じ焼け具合のものしか出てこない。作陶過程で備前焼は焼くことが最も重要なのだが、それが温度計という機械の僕に成り下がっているのだ。機械を使えば使うほど出来上がったものは味気なく機械的になってしまう。せっかく成型まで苦労して白地まで漕ぎ付けたのだが、最終段階の焼きのところで機械的になり、手作りのぬくもりのあるものから程遠いものになってしまう。土を水簸し土練機を使用しているのでは、温度計以前の問題であり、端から話にならない。温度計に頼らず自身の判断で思い切って焚かなければ、自身が焼いたとは言えない。温度計抜きで焼けば、窯焚きにより真剣になり、さまざまな工夫や創意が生まれ、焚くごとに趣の異なるものが焼け、窯焚きが一層楽しくなるのだが。
窯焚きの課程で遭遇する炎の色、窯の状態、窯の燃える音、煙、匂い等々を感じ取って薪の投入量や口の調整などをするのだけれども、機械(温度計、時計)に頼れば、こうしたことを感じ取ることが疎かになる。本来、窯焚きを繰り返すうちに、窯からのこうした複雑な情報・シグナルを見逃さないように感覚を研ぎ澄ませ、養うことによって、窯焚きの仕方を習熟していくのだが、現在、温度計の使用によって、こうした習得機会は失われている。
1600年頃、朝鮮から連房式登窯が釉薬物である唐津などにもたらされたが、この新しい窯の出現によって、それまでの焼物が焼けなくなるといったように、新しい技術は量産するにはすぐれているが、それによって失われるマイナス面も計り知れない。何事もそうだが、新技術といっても必ずプラスとマイナスの両面があるのだ。良い焼物を作るには時間が掛かり、非効率な無駄な制作過程を抜きにしては成しえないのである。効率の追求では優れたものは生まれてこない。その対極にある大量生産された工業製品ではなく、わずかしか取れない極め付けのものを創り出すプロセスは、効率とは縁のない原始的な作業の積み重ねなのだ。
今から約3万年前の石器時代、この多摩に黒曜石が運ばれてきていた。どこからか、といえば信州の和田峠や霧ヶ峰から運ばれ、この信州産黒曜石は関東・中部地方だけでなく、北は青森県から西は奈良県までの広範囲で使用されていた(蛍光X線分析で黒曜石の産地を推定できる)。もう1カ所は東京都の神津島産で海を渡って運ばれていたのだ。地図もなく道もない3万年もの昔に数百キロの道のりを歩き、あるいは海を越えて黒曜石はやってきた。人間はもともと本能として備わっていた直観、感覚、身体能力が黒曜石の運搬を可能にしたのだろう。人類の祖先が魚であったことから考えれば、信州から多摩へ黒曜石を運ぶことはそれほど難しいことではなかったのではないか。鮭は数千キロを回遊し、生まれた川に帰って来るのだから。黒曜石の運搬に限らず、エジプトのピラミッド、万里の長城、古代ローマの道路や水道等、今から考えてもこれだけのものを作る人間の力に驚きを感じないわけにはいかない。
人類が黒曜石を使い、石斧、石の矢尻から銅や鉄の道具へとより使いやすい道具が作られてきた。産業革命以降は機械文明が急速に発達し、人間の手足を使う機会が少なくなった。使わなければだんだん使わないところの機能は低下していく。病気で1カ月も床に臥せていれば、足腰が弱くなるように、使わなければ劣化していくことになる。昔の人ほど手に限らず足腰も丈夫であり、現在から思えば想像もつかないほど身体能力は高かったのだろう。頑強な身体だったからこそ、形も焼けも今のものとは比べ物にならないできのものが残っているのだ。
日本の土ものの名品は桃山までのものだ。それ以降は磁器の出現もあり、衰退していった。時代の流れに乗れなかったこともあるが、道具や機械が次々に登場したことも頭や手の使用頻度を低下させ、本能として備わっていた鋭い感性や直観力が失われていくことになったからではないか。窯焚きは、まさに人間の本能に属する領域がものを言う仕事なのだ。焼けたかどうかといった微妙な判断を下す根拠は感覚しかない。そういった本能の部分が科学技術の発達にともなって身体から抜けてきていることが、古典のようなものが作れなくなったひとつの原因ではないだろうか。
江戸時代以降、備前焼にも見るべきものが見いだせないのは陶工の本能が弱くなってきたからか。明治に入っても盛り返す力はなく、戦後、金重陶陽(1896~1967、1922年宝瓶制作、1932年ロクロ物へ、1937年ぐい呑制作、1956年人間国宝)が「中興の祖」として活躍しだしてから備前焼は注目を集めるようになった。だが、陶陽の備前焼は古典には程遠く、崇められる作品ではない。しかし、陶陽が人間国宝となり、陶陽の備前が備前を代表するようになったことから、陶陽備前があまりにも持ち上げられることになった。
陶陽備前は、穴窯ではなく連房式登窯で輪積みでもなく水挽であるなど古典の制作方法とは、はなはだ異なる製法で作られたものであるから、古典とは異質なものであるのは当然なのだ。陶陽をいくら真似ても、陶陽以上のものは出てこない。だが、備前の陶工も横並び意識が強いのか、陶陽備前の人気がでれば、一斉にその方向に進む。個性を出すと言いながら、集団に埋没する選択をしているのだ。軸が定まっていないので、その時その時の流行を追い求めることに終始している。このような作陶姿勢だから、一歩一歩着実に足場を固めることはできず、その場限りの仕事になってしまう。出来上がったものは「素直さ」、「純粋さ」、「豊かさ」から掛け離れ、「虚栄」、「俗臭」が漂うものになる。何回も焼く人がいるが、そういう人のものは「匠気」に満ちている。
戦前から100年以上も連房式登窯で焼いてきたけれども、古典のような良く焼き締められ、焼くことでしか出てこない色彩を表現することはできなかった。100年超の経験をもってしても作れないということは、ひとつは作り方が間違っているからなのだ。そうした厳然たる事実に目を向けることなく、自己流で備前焼に取り組んでいるのは滑稽なことだ。
現在数百人の人が備前焼に取り組んでいるそうだが、古典のようなあるいはそれを超えるようなものを作りたいのであれば、原点に戻るしかない。個人の力ではとても対応できなければ、数人で共同窯を焼く、あるいは持ち回りで各自の窯を焼くといった方法を模索するしかない。だが、いずれにしても、窯は土で作られ、煙出だけを備えた最も単純な構造でなければならない。そこに一致点を見出すことができるならば、共同も可能だろう。
資本主義による利益追求によって、近代技術は留まるところしらず、手足の代りになる技術から頭の代りになりそうなAIへと突き進んできた。はたしてこれが、経済社会をより豊かにすることになるのだろうか。利益追求行為は立ち止まることはなく、利益が期待できれば、だれもが先へ先へと急ぎ、そして莫大な創業者利得を手に入れようとする。うまくいくかどうかは、わからない、すべては企業家の能力次第だ。新機軸が首尾よく利益に結び付けば、さらにつぎの段階へ進むというプロセスの飽くなき追求なのである。我々の社会に次から次へと登場する新機軸を十分に吟味し、はたしてそれが社会に相応しい物であるかどうかを検証することはない。問題が発生して始めて少し立ち止まるくらいだ。
目に見える問題であれば、解決しようとするけれども、進行が極めて遅く、感知しづらい問題であれば、見過ごされることになる。これまで、見過ごされてきた一番の問題は、人間に本来備わっていた能力についてではないか。技術文明の発達によって、知らず知らずのうちに人間の身体能力は衰えてきたのだ。
備前焼の優れたものが作れなくなったのは一例にすぎず、工芸品一般について言えることだ。絵画や彫刻の世界についても当てはまるだろう。備前焼のように土作りから窯焚きまでの作業が500年前とは違っていれば、そのことは、あきらかに出来上がったものを異質にするが、それだけではなく人間そのものが500年前とは異質になっていることも、もの作りに影響しているように思う。石器時代の3万年という時代に遡ればさらに異質であるし、10万年前では、今の人間とは想像もつかないほど掛け離れているのだろう。
手足に加え頭まで使う機会が少なくなれば、人間の変化はこれまで以上に急速に進むことになる。言えることは、使用しなければ、使用しないところは確実に動きがぎこちなくなり、衰えるということだ。数十年の単位では、その変化はわからないけれども、百年千年経過すれば、変化が明らかになる。備前焼の窯焚きを通して、技術文明と人間の本源的能力とは反比例の関係にあることが見えてきた。