4月28日、植田日銀総裁初の定例記者会見が開かれた。黒田前総裁の方針を踏襲し、まさに屋上屋を架す姿勢に徹した。岸田首相を始めとする政府の答弁や企業の会議と同様に、内容が乏しく、無駄な時間がだらだらと過ぎて行くだけであった。記者の質問に対してありきたりな言葉で答えて終わり、再質問は封じられている。このような会見をいくら開いたところで、日銀の考えをより深く探ることなどできはしない。単に、会見をやっていますよ、という形式的な行事に過ぎないのだ。
質問する記者も勉強不足だ。事前に調べる時間は十分にあるのだから、なぜ物価目標を2%にするのか、といった鋭い質問を浴びせなければ、会見の意味はない。根拠のない目標を掲げ、それに固執する体質は戦前の軍国主義と全く同じだ。後ほど述べるが、記者のなかに経済や金融の博士号取得者がどのくらいいるのだろうか。日本の会社の人事制度にたがわず、新聞社も社会部から政治部等々へ移動し、いろいろなところを転々とするのだが、それでは知識は広く薄くなり、専門性に欠ける記者ばかりということになる。会見をつまらなくしている要因のひとつは記者の力量なのである。
会見や会議などを、さまざまな団体や組織が開いているけれども、その多くは、日銀の会見のように実りはなく、ただ、時間が経過していくにすぎないのである。新たな見方や発想が得られるケースは稀ではないか。それでいて、会議が頻繁に開かれ、そのために準備しなければならない資料作りなどに、貴重な時間が取られてしまうことになる。デジタル社会になってから、そうした裏方の仕事はますます増えている。ITなどによって、利用できるデータがあまりにもたくさんありすぎて、便利になったのではなく、むしろ、データのなかに埋没してしまう事態に陥っているのだ。
経済データにしてもかつてのように、業者に料金を支払い、ファックスで受信していた段階からデータ提供会社からの入手、そして今はだれでも自由に政府関係の統計はダウンロードできるようになった。世界中の公的機関が膨大なデータ(なかには有料のものもあるが)を日々発信しているが、アプローチされるのはほんの一部にすぎない。すべてのページを開くことはとてもできないことなのだ。「豊かさの中の貧困」がデータ閲覧・収集の世界にも表れている。
あらゆる統計を駆使できる時代なのだが、データを持て余しており、経済の分野でもマルクスやケインズのような世界を変えるような理論家は現れていない。経済社会を構造的に捉える力が根本的に不足しているからだろう。ある仮説を立てたうえで、経済理論を構築する想像力に乏しいのだ。利用可能なデータが山のようにあっても、小学生や中学生には「猫に小判」なのだが、それと同じようなことが経済学を生業としている人にも言えるのだろう。
小中学校の教師の勤務時間の長さが問題になっているが、これとてITが普及したことにより、ますます深刻になってきたのではないか。本来、ITは作業効率を改善し、労働時間の短縮を目指すのだが、現実は逆の事態が起こっている。近くに孫の通っている小学校があるが、夜の8時すぎても煌々と明かりがついている。いったいこの時間まで何をしているのだろうか。この時刻に学校を出れば帰宅は9時や10時になるだろう。朝は8時前には学校に着いているのだから、こうした勤務では、とても人間らしい生活を営むことはできない。肉体的にも精神的にも疲れていれば、教えることが疎かになる。日本人の集団主義体質が、みんなが残っている、ということだけからずるずると居残っているのかもしれない。戦前の集団主義を今も引きずっているのだ。いつになれば、集団主義の呪縛から解き放たれるのだろうか。
これは義務教育だけの問題ではなく、大学にも当てはまるのだ。講義時間が100分になり、教えるコマ数も多く、雑事も増えている。なぜ100分もの長時間にしたのか。60分で十分ではないか。教育に集中することになれば、研究に割ける時間は少なくなり、多くの大学は、研究はできなくなってしまったと言えるのではないか。研究成果が厳しく求められていながら、文部科学省によって研究できない環境が作り出されている。
小学校から大学まで教師は時間に追われ、ゆとりがどんどん失われている。すべては政府、文部科学省の責任であり、これまでのその場限りの教育行政の付けが回ってきているのだ。だが、政府は反省することはなく、大学を独立行政法人化することによって、経済で言うところの新古典派の競争原理を大学に押し付けている。そもそも、教育に競争原理を持ち込むこと自体間違った方法である。教育は経済ではない。そこに経済、つまり金儲けの原理を導入すれば、教育は企業活動のようになってしまう。これまでも大学はサラリーマンの養成機関であったが、いまでは小学校からそうなっているのだ。受験競争が激化しているのは、単線型の融通の利かないサラリーマン路線に、みなが乗り込もうとしているからだ。
大学院博士課程に進む院生が減少しているのは、博士課程に進学すればサラリーマンになる機会が失われるからだ。教育・研究機関は狭き門であり、そこに就職できなければ、企業で働くことになるのだが、依然、日本では博士課程修了者を採用する企業は少ない。だから、博士課程への進学には躊躇するのである。博士課程の院生が少なくなれば、日本の研究者層は薄くなり、研究成果も縮小するだろう。日本の知的活動水準を低下させている首謀者は文部科学省なのだ。
大学・研究機関に首尾よく入れたとしても終身ではなく期限付きであれば、短期間で成果が出やすいテーマを選び、論文も質よりも量になる。こうした任期研究員の増加では研究の質は向上せず、本当にすぐれた論文はなかなか出てこなくなる。時間にゆとりがあり、自由に研究ができて始めて本格的な論文が仕上がるのだ。
文部科学省によれば、「質の高い科学論文」(2018年~2020年、引用件数がトップ10%に入る)は前年の世界10位から12位に後退。2002年~2004年には4位だったが、2006年~2008年以降、低下し続けており、自然科学に限っても、日本の研究の質的後退は著しい。
文部科学省の『諸外国の教育統計』(2022年版)によれば、人口千人当たりの大学院生は日本の2.05人に対して米国9.29人、英国6.06人、フランス9.49人、韓国6.19人、中国2.02人である。大学院生・学部学生比率は日本9.8%に対して米国16.8%、英国25.8%、フランス72.7%、ドイツ56.6%、中国16.2%、韓国16.1%といずれの国よりも低い。専攻分野別では日本の大学院生は工学と医・歯・薬・保険が半数弱、博士号取得者も当該分野が6割超を占めている。博士号取得者に占める人文芸術と法経等の博士号取得者の割合は日本の11.3%に対して、米国31.0%、英国27.9%、フランス34.1%、ドイツ21.5%、韓国32.8%となっており、日本の人文・法経の博士号取得比率が異常に低いことがわかる。
日本の新聞記者を始めとするマスコミ関係者の大学院修了者や博士号取得者はどのくらいいるのだろうか。おそらく欧米を相当下回るのだろう。証券会社などの金融機関の調査部門で博士号を取得している人の割合も低いはずだ。日本では、まだ人文・社会科学の博士課程の教育がお座なりになっており、真っ当な教育と厳しい指導による博士を生みだす環境ではない。経済社会の構造的な仕組みを解明し、理論構築するには人文・社会科学の知識を総動員しなければならない。社会科学系の博士の養成が貧困なままでは、日本経済の展望を描くこともままならず、ジリ貧からの脱出も難しい。