コミュニティという言葉が飛び交うのを止めることはないようだ。
しかし幻影を求めるかのような感じを持つ人もいよう。人の関係は極端に薄く、無縁の空間におかれていることを実感させられる機会も多いから。
人はなにによって共同性や連帯を求めているのだろうか。それに重きを置く観念(イデオロギー)によっているなら、それは幻影のままかもしれない。
現実のなかに相互救済を必然とする事情があり、そのなかで連帯の内実を求めるほかにその実相はみえてこないのかもしれない。
日本民俗学はかつて岡山の都窪郡や愛媛宇和島にあった「山あがり」や「はぐくみ山」、「御介抱山(ごかいほうやま)」の事実を教えている。困窮し生 活に窮した者を山にあげ、小屋掛け生活をさせ、山畑を耕し薪材を販売させて生活の活路を開かせたのである。共有の山を困窮者の救済に充てたわけだ。
しかしいま「山」はない。困窮したらおしまいである。たしかに公共による扶助の制度はある。民間のNPOなどによるサポートの取り組みがある。あたまが自然にさがる取り組みを聞くこともある。しかし、うまくそれに関われる困窮者ばかりではないようだ。
取り組みはあっても不十分なのは、もとよりそうした取り組みのせいではない。おそらくは扶助の慣行を失ってしまった一人ひとりの生活の仕方のなかに 理由があるのだろう。シェアし共有の物事を持つ習慣の欠如がその根っこにあるのかもしれない。相談事ひとつとっても、事をわかちもたねば相談にはならん し。
しかし「山」を追放してしまっているのだから、そこに避難して再起を期すなんてことはありえない。
現実は種々の顔を持つ。かつての無尽講も褒められたものでもないなという面をもつものもあったが、孤児救済の「出世無尽」などの義理づとめに、シェアしわかちもつ務めがあったことを知る。
もしかしたら義理づとめを追放してしまったのにコミュニティを語るから、コミュニティという言葉に空疎さや幻影でしかないという感じがつきまといはじめたのかもしれない。
世の中が拡大し、特別肩を寄せあって生活する必要などなし、可能性が広く開けている、束縛は去り、豊かさへと人が動いて、さて、結果が出てきて、広々とした豊穣が幻影であったことを知る人も数多く生まれ、山なき里に出てきてしまっていることを知る。
さて、どこに山をつくって、あがろうか?