日経平均株価の連続高は12週で途絶えたが、TOPIXは先週も上昇し、13週連続高である。商いは異常に膨れ、7日の売買高は50億株(東証1部)を超えた。昨年の1日平均は20.9億株であるから倍以上に膨れていると言うことだ。過去最高の売買高は2007年の22.2億株であり、株式バブル期の1988年(10.2億株)の約2倍の規模に膨らんでいた。1988年の売買高を超えた2003年以降は異常な状態が続いている。昨年10月第4週以降の東証1部値上り率は31.0%と日経平均の27.4%を上回っている。約3ヵ月間で30%を超える暴騰といえる上昇だが、政治屋にとってはまだ物足りないのだ。9日、甘利明経済再生相は講演で「株価は上がるように次々と手を打っていきたい。期末までには1万3千円を目指して」と述べている。株高で経済が好転するのであれば歓迎だが、株高では経済は良くならないことは90年代以降の歴史が証明している。良くなる感じがするだけで、消費が刺激され、設備投資意欲が回復するわけでもない。ましてや、一時的な急騰では、その後の暴落は不可避であり、経済にダメージを与える反動が怖い。
株式の本来の役割は資金調達であり、流通市場は2次的なものだ。資金調達という発行機能はまったく機能せず、流通市場のみが超活況になるのは本末転倒。今、株式は由々しき事態の真っ只中にあるというべきだ。それをさらに煽るような不見識な政界、経済界、マスコミの面々は、90年代以降の塗炭の苦しみなど忘れてしまったのだろうか。何度株式に振り回されても懲りない人たちのなんと多いことか。
株式の発行市場としての機能などもう必要ないのだ。企業は巨額の資金を保有しており、いまさら株式を発行して資金を調達することはない。加えて、金融機関には貸出資金はたっぷりあり、わざわざ株式市場に世話になることもない。金利は驚くほど低く、低コストで金融機関から借りることができる。金融機関が困るほど貸出が伸びない状況では、上場しているような企業であれば、好条件で借りることができ、もはや発行するための株式市場などなくてもよいといった状況だ。
だから、毎日、場が開かれれば、瞬時の株価の変化のみに集中し、鞘を抜きに徹することになる。このように3ヵ月におよぶ上昇相場は博徒にとって本領発揮できる絶好機なのだ。だが、博打が盛んになって経済が良くなるなどと思う人などいないはずだ。もし博打で経済が良くなるのであれば、みんなが博徒になればよいことになる。仕事を放り出してみなが博打打ちになったら、社会はどうなるか。みんなすってんてんになって、胴元だけが儲かることになるのだ。株式という博打場が活況な社会は、安倍首相がいう「額に汗して働けば必ず報われ、未来に夢と希望を抱くことができる、真っ当な社会」(1月28日)とは正反対の社会なのである。
そもそも株価が値上りしてだれが値上がり益を受け取っているのだろうか。日本株を買っているのは外人だけであり、利益を得ているのも外人なのだ。意図せざる値上りにより、国内勢はほぼ売り越しだ。しかも、売り越し額が多いのは信託銀行や生損保の金融機関であり、こうした金融機関の売却では消費や設備投資を持ち上げることは期待できない。
売買高の急増によって、株式売買回転率も急上昇している。昨年12月の東証1部株式売買回転率は180%(年率)と同2月以来である。今年1月はさらに上昇しており、200%を超えているだろう。このような投機相場がいつまでも続かないことは明らかであり、早晩、激しい値下がり局面を迎えることになるはずだ。
実体経済を蔑ろにした株高は脆い。金融緩和という実態のない言説によって、あたかも市中に金が溢れるような感覚を庶民に植え付ける。だから、株高になっているのだと、国民を納得させる。まさに金融緩和とはいかさまなのである。金はただで配ることはできないので、庶民の懐には回らない。金の行き先は政府なのだ。金融緩和とは政府と日銀がぐるになった政府への資金供給策である。
1月末の日銀の国債保有額は118.6兆円と過去最高であり、08年末の63.2兆円を底に買い進めている。日銀券も前年比3.1%伸びており、実体経済とは別のところに金は流れている。日銀がこれだけ国債を購入しているので、政府の財政が資金不足に陥らずに済んでいるのだ。
日銀の国債保有額が底であった辺りから株価も反発し、変動を繰り返しながらも、日銀の連発する金融緩和で支えられている。昨年、日銀は2月を皮切りに計5回の金融緩和強化を実施し、過去にない国債買取規模となった。頻繁に登場する金融緩和の呪いによって、日経平均株価は1万1千円台に乗せた。金融緩和の呪いはいつまで持つだろうか。