原発事故の対処方法をみていると、東電、経済産業省、政府などがそれぞれ情報を発信し、コメントしているが、1次情報を東電に依存しているのであれば、ますます事態の収束は遅れてしまうだろう。原発の事故隠し、データの改竄・捏造などあまりに酷い過去を振り返ると、東電からの情報は信用が置けないからだ。正しい情報を入手するには危険な現場に入り、直接、自らの目で確かめる必要がある。
原発の現状と説明には素人にも食い違い目立つほど現状認識は甘い。現状の捉え方が甘くなれば、それだけ対応が不適切になり、なすべきことが後手になってくる。これまでの東電の対応は不首尾であり、外部から原発全体を把握できる人材を登用し、責任者に据えなければ、収束にいたることは難しい。一電力会社ではどうすることもできない事態に陥っているのだ。
福島第1原発は1号機が1971年に営業運転を開始し、すでに運転期間は40年にもなる。その間、事故は枚挙に遑がないほど起きているが、データの改竄・捏造のほかに、1号機の格納容器気密試験データの偽装や3号機で起きた臨界事故といった大事故まで隠されていた。事故が頻繁に起きていることは、それだけ原発を安全に運転することは難しいということであり、いつ大きな事故が起きても不思議ではないことを示唆している。その意味では今回の事故は、起こるべくして起きた事故といえる。
事故を重ねたにもかかわらず、真面目に事故を究明する姿勢に欠けており、そうしたずぼらな体制が取り返しのつかない事故を招いた。これまでの数々の事故に真剣に取り組んでいれば、今回のような事態にいたらなかったかもしれない。仕事は関連会社にまかせ、関連会社はさらにその下請けに、その下請けはそのまた下請けにという、いったい本当の責任は、だれになるのかわからなくなるような仕組みのなかで原発の仕事は行われていた。
政官財だけでなくマスコミ・学者・専門家までの癒着が、原発の問題を問題にすることなく、独走させた罪は重く、償いきれない。東電も深謀遠慮をめぐらすことには長けていたが、所詮、能吏の域をでず、危機に直面すれば、「想定外」で逃げることしか頭になかった。だが、今回は原発で会社は破綻し、逃げることもできないだろう。
それにしても日本の被害者はおとなしく、国民の原発の是非に関する議論は盛り上がらない。チェルノブイリ以降、イタリアでは国民投票で原発放棄が成立、ドイツでも脱原発のレールが敷かれていた。福島原発で再び、脱原発運動が活発になり、州議会選挙では「緑の党」が躍進した。
これだけの大惨事に遭遇しても、原発地域の住民は、原発を大丈夫と思っているのだろうか。地震の巣に55機もの原発があることは、第2、第3の福島が起こる可能性が十分にあるということだ。政官財マスコミ学者専門家に深く根を張った原発ファミリーの息の根を止め、原発と核廃物のリスクを低減させるには、菅首相が原発計画をすべて破棄し、既存の原発の放棄を宣言する以外に方法はないだろう。そのような決断を下すならば、多くの国民は喝采を送るはずだ。