株式・債券バブル膨らむ

投稿者 曽我純, 3月3日 午後6:51, 2013年

日米共に株式・債券バブルが膨らんでいる。株式・債券バブルを先導しているのは言うまでもなく中央銀行である。さらに政権も加担している。NYダウは過去最高値に接近し、日経平均株価は08年9月以来の高値を付けた。日本国債の利回りは2003年6月以来の低い水準である。世界の金融史をふりかえってみても、今の日本の利回りほど低い利回りの時代はない。米国債も100年以上の歴史のなかで最低だったときと同じレベルである。国債利回りが歴史的低水準にあることは、本来ならば、期待収益率の極度の落ち込みを現していることである。そうであれば、株式など売られて急落しているはずだ。事実、03年6月に利回りが過去最低を付ける過程で、日経平均株価は7,000台に急落した。08年秋の米債利回りの急低下期間、ダウも6,000ドル台へとピークの半値以下に暴落した。

 現在の米債利回りは、急低下した08年末の水準よりも一段低いのである。07年半ば以降、米債利回りは低下トレンドにあるが、株式は09年3月を底に上昇トレンドを示しており、従来の債券利回り低下・株安から債券利回り低下・株高という関係に変わってきている。

経済が好調で、先行きも期待できれば、株高も不思議ではないが、先行き経済が大幅に良くなるような兆候は認められない。バーナンキFRB議長は国債等の買入継続を議会で証言し、株高を援護した。日本では次期日銀総裁候補による金融緩和期待を背景にした株高が続いている。

 実態のない金融緩和という掛け声だけで株高と債券高のふたつが同時進行している。金融緩和の念仏で株高期待が高まり、買い意欲が高じ株高となる、期待が実現したことで買いがますます優勢になる図式だ。他方、国債利回りの低下は中央銀行が付いているという安心感から買い上がっているのだ。

 だが、期待だけの株高は早晩行き詰まり、激しい下落に見舞われることは、歴史が証明している。これまでに中央銀行の超低金利政策で株式バブル生み出し、その後の暴落で経済を疲弊させたことを忘れてしまったのだろうか。現在の経済情勢では、中央銀行は物価の安定と同じように株式・金融の安定を政策目標にしなければならない。実体経済に占める金融のウエイトが1970、1980年代に比べて格段に高くなっており、金融を実体経済と調和させる金融政策が極めて重要になってきている。

 政策金利をゼロに設定しているため、日米の金融政策はもう機能しないのである。それを、買いオペを拡大すれば、さらに金融緩和になるなどと摩訶不思議なことを平気でいっている。民間非金融部門に貨幣需要があれば、銀行への資金供給は理に適うけれども、いま民間部門には貨幣需要はほとんどない。銀行が国債を貨幣と交換しても、銀行にある貨幣は行き場がなく、結局、国債を買うことになる。それでもまだ銀行には遊休貨幣があるのでそれは日銀に預けられる。日銀が買いオペで供給した銀行資金の一部は国債、残りは中央銀行へと向かっている。預金は銀行と日銀を経由して、国債に換わっているのである。これが量的緩和の実態であり、量的緩和は株式と国債相場を支えるための装置なのである。

 日銀新総裁が決まればさらに金融緩和になるという。どの分野にどのようにどのくらいの金融緩和の効果があらわれるのだろうか。新総裁に聴いてみたいものだ。これまで巨額の国債を発行したが、日本経済はまったく好転しなかった。日銀の国債購入増額で経済が良くなるのであればとっくの昔によくなっているはずだ。そもそも需要が減少している経済では、さらに国債を日銀が購入しても、民間需要を喚起することなどできない。日本経済に占める公的部門の比率が上がることにより経済の落ち込みを緩やかにする程度だ。

 安倍政権の経済政策は典型的なケインズ型の財政・金融政策である。経済を刺激する方法はそれ以外には考えられない。成長戦略などというが、具体的にはなにもなく、詰まるところ国が金をだす仕組みを作ることであり、財政政策の範疇に入るものだ。安倍政権の政策にはまったく目新しいところはないのである。まさに小泉政権がキャッチフレーズで大衆を引き付けた方法の踏襲でしかない。

先週の安倍首相の施政方針演説によれば、「原発は再稼動します」、「防衛関係費の増加を図る」、「憲法改正に向けた国民的な議論を深めよう」と日本をますます危険な国に変えようとしている。地震や津波もいつ起きるかわからないところに、原発を動かし、武器輸出にも踏み込む。人口減少という負の要素を抱えながら、危険な要素を増やしていく政治を目指している。おそらく世界のなかでも最高にリスクの高い国ではないだろうか。そうした国の株式が常軌を逸した値上りをしているが、政権に襤褸が出るのも時間の問題であり、そのときには値崩れで経済は揺さぶられるだろう。

さらに、「道徳教育の充実」という政治家自身がもっとも欠落している部分を子供に強要しようとしている。子供は大人の鏡といわれており、大人社会に節義が軽んじられているから子供もそうなっているのだ。だが、道徳など教えられるものではない。社会全体を反映したものであるから、大人の振舞い物言いなど日々の行動を子供が見ても恥ずかしくないものにしなければならない。道徳を言葉で言うのは簡単だが、身に付くには粘り強い大人の真摯な生きる姿勢がなによりも大事なことだ。

「いじめや体罰」に取り組むといいながら、政権自ら「防衛関係費の増加」や「武器輸出」など覇道に突き進もうとしている。大人がこのように力を背景に政治を進めようという考え方は、「いじめや体罰」と相通ずる。平和を踏みにじる体制を構築したい政権が、道徳教育などということ自体白々しく、自己矛盾している。 

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