7月12日、東京は4度目の非常事態宣言下に入る。非常事態宣言を出したり引っ込めたりを繰り返す。頻繁に非常事態宣言を出せば、非常事態宣言ではなくなる。言葉だけで、実際にはなにの効果ももたらさない。舌の根の乾かぬうちに平気で非常事態宣言を発するような、その場限りの取り繕いといった政治姿勢が菅首相の特徴と言える。しかも、言葉の伝える機能など無視してしまった。質問などそっちのけで自分の思っていることをただ喋るだけ、それで首相の地位が維持できるという不思議な国、日本。
これほど政治がだらしなく迷走するのは、本来の政治目標の遂行ではなく、自民党総裁と衆議院議員選挙だけに焦点を合わせ、それらに勝利し、政権を継続させたいからだ。オリンピックと新型コロナ対策はそうした目標を成就するための手段でしかない。だが、そうした目論見は潰えてしまった。ほとんどの競技が無観客になってしまい、オリンピックは単に開催するということに貶められたからだ。今回のオリンピックはまさに無味乾燥である。「新型コロナに打ち勝つ」などという勇ましい言葉は影を潜め、戦々恐々としている有様である。
オリンピックを開催し海外から多くの入国を認めながら飲食店には厳しいお達し、これではあまりにも理に反するではないか。道理に反することでも自己保身のためにはやり抜くのが安倍政権、そしてそれを引き継ぐ菅首相の方針なのだ。
新型コロナがどうなろうと、オリンピックは開催するという菅首相の意固地がすべての混乱を招いた。首相に就任して1年も経過しないが、オリンピック開催に固執したばかりに、新型コロナ対策の方針が定まらず、右往左往し、オリンピックの内容も書き換えられ、そのたびごとに関係者には膨大な仕事が押し寄せてきたことだろう。1回でできた仕事が何倍もの仕事量に膨れ上がるのである。後ろ向きの仕事など、ばかばかしくて遣ってられないとの思いが偽らざるところではないか。企業でも然りで、上司の気まぐれによって無駄な仕事が増え、本当にやらなければならない仕事が疎かになる、ひいては長時間労働と生産性の低下を招く。リーダーがリーダーの素質に欠け、適切な意思決定ができなければ、国民の被害は自然災害に勝るとも劣らない。
組織の指導者たる1人の意思決定に翻弄させられているのが日本の実情ではないか。行政機関だけでなく民間企業を含む多くの組織が、組織として十分に機能していないことが問題なのである。ガバナンス、ガバナンスと騒いでいるが、一向に、企業の不祥事はなくならない。なぜ企業を始め組織の問題はなくならないのか。手っ取り早く言えば、『ベンチがあほや』から起こるべくして起きるのである。『ベンチがあほや』と気づいてはいるが、ベンチにいる人を取り換えることができず、いつまでも『ベンチがあほや』を『まともなベンチ』に改革することができないからだ。
然るべきトレーニングを受けた人でないと一国の首相を務めることはできない。経済から教育、福祉などあらゆる分野について深い見識と知識を持ち、国を俯瞰的にみることができなければならない。世界経済や政治の歴史にも精通しておくべきだろう。さらに文学や芸術などについても、ひとかどの知識と楽しむことができる素養も持ち合わせていなければならない。いずれにしても首相は世界を総合的に把握できる能力が求められる。
そうした要件をそなえた人物を一握りの派閥関係者によって談合で選ぶのでは、期待に応える人物が選出されることはほとんどない。首相だけでなく、企業の経営者も選出が曖昧であり、経営者に相応しい人がかならずしもついていないことが、多くの問題を引き起こしていると言える。もとより、経営者だけが問題のすべてではないけれども、多くはそこに問題の根源はあるのである。
物言う株主も現れてきているが、依然、一部にすぎず、大半はこれまで通り波風立たず穏やかに総会を終えている。だが、企業に問題などないはずがなく、問題を打っちゃっているだけなのだ。監査が経営をつぶさに精査すべきなのだが、東芝などのケースをみると、監査もほとんど機能していない。株式が一部の株主に集中していれば、株主総会が正常に機能することは不可能である。しかも上場企業は少なく、非上場企業の場合、大半は一握りの株主によって支配され、経営と所有は不可分の関係にあり、そこでは統治と非統治の関係しか成り立たない。
企業の統治も政治も改善されることなく、経済の拡大だけを目指したことが、新型コロナを招いた要因のひとつと言えるだろう。経済の規模だけ大きくなり、それに伴い中身も発達しなければ、さまざまな障害に悩まされることになる。やはりバランスが大事なのだ。経済だけでなく、それ以外のものとも調和がとれていなければ、結局、我々はしっぺ返しをくらうことになる。未開地の開発で熱帯林の奥へ足を踏み入れていけば、今まで静かに暮らしていたさまざまな生き物が寝床を奪われ、どこかに住処をもとめていかざるを得ない。
現時点でも、自然災害に遭い、家を失い、住み慣れたところからの離脱を余儀なくされていることと同じことなのである。これだけ地球温暖化が叫ばれているにもかかわらず、経済成長至上主義は改められない。新型コロナはこれまでの経済中心主義から成長なき経済を模索する契機にしなければならないのだが、資本主義経済の成長志向は不変の原理のようだ。
今のところ世界では、新型コロナで約420万人が犠牲になっているが、死者がさらに増加しようが、経済成長重視の考えは変わらないのだろう。地球温暖化を止めなければというが、経済成長を止めようとはしない。経済成長が温暖化を進行させ、地球を傷つけていると世界のリーダーは発するが、法人税の下限を示す程度でお茶を濁す。
切迫感はまったく感じられない。スーパーで買物をすれば、いくつものプラスチックを持ち帰る。24時間営業のコンビニや宅配が生活に不可欠になっているが、いずれも地球温暖化を進める。いたるところに設置されている自動販売機やネオンも電力の無駄使いだ。長時間労働や深夜営業も地球を痛めている。
新型コロナは生活様式の変更を我々に迫っていると受け止めるべきだ。ウイルスは敵ではない。悪さをすることもあるが、哺乳類には不可欠なウイルスもいる。今までは人間はあまりにもわがままに振舞ってきた。やはり節度は大事である。食べることでも「腹八分目」というではないか。代謝能力を超える食べすぎは、がんから認知症にいたる病の元になるらしい。ほどほどが深刻な事態を招かない最良の生き方かもしれない。
仕事の帰りに気の合う友達と一杯やる幸福感は否定できない。だが、仕事が終われば、帰宅し、家族で食卓を囲み、その日のことなどを喋ることも楽しいことだ。家族でろくに食卓を囲むこともできない社会は、決して良い社会とは言えない。普段の生活ができる社会を取り戻すことが、社会の充実・安定には不可欠なのである。新型コロナウイルスは生活の反省を促し、より人間的な生活に舵切りするように呟いている。
■次号以降、夏休みでしばらく休みます。