3月11日、1.9兆ドルの新型コロナ追加経済対策法案が成立したばかりだが、先月末、バイデン米大統領は2兆ドルのインフラ計画を発表した。今月半ばにはその第2弾を打ち出すという。こうした大規模な財政出動によって、米国経済の足取りがより強くなるとみられ、ドルは買われ、対円では1カ月で約4円上昇した。経済の回復期待が国債利回りを緩やかだが引き上げており、この傾向が持続するならば、ドルはさらに勢いを増すだろう。
これほどの国家の経済への介入は社会主義国を彷彿させ、中国などと大きく変わらないのではないか、との見方もできる。社会主義は資本主義に近づき、逆に、資本主義は社会主義に近づくことになるのだろうか。政治体制は民主政治と独裁政治という大きな違いがあるけれども、経済体制にはそれほどの違いがあるわけではない。中国でも株式市場があり、資金調達がそれなりに機能しているのだろう。国家が株式の多くを支配しているが、日本でも日銀の株式購入、あるいは郵政などのかつての公的機関の株式を国が所有している現実をみれば、中国の国による株式所有も決して異なものではない。
資本主義経済の最大の特徴は、モノやサービスの価格が需要供給によって決まり、そうして決まった価格を見ながらあるいは予測しながら、また需要が生まれ供給を決めていく仕組みにある。社会主義経済では国が需要や供給を決めていくのだが、モノやサービスは数えきれないほどあり、とても需要や供給を正確に計算できるものではない。モノやサービスの廃れや新商品の登場などは日常茶飯事であり、とうてい国家が捕捉できるものではない。経済はダイナミックなのである。そうした経済の新陳代謝を取り入れることができるほどの経済計画や経済計算は、いくらITが進歩してもむつかしいのではないか。
中国でも価格メカニズムを導入しているが、一党独裁の政治があらゆる欲望を吸い上げることはできないし、党に反する欲望は阻止しなければならず、民主主義のような広い欲望(モノやサービス)まで市場化し、市中に出回ることはない。もちろん民主主義でもすべての要求が叶えられるわけではなく、国家の恣意的な判断でしばしば歪められる。ただ独裁国家よりは許容範囲は広いと言えるのではないか。
国家的な視点からの欲望が満たされてくると、さらに国民の側からの要求が沸き起こってくる。そうした要求は民主的なものを含んでいるが、独裁国家ではそうした要求は排除され、欲望を貫こうとすれば拘束されることになる。民主主義国でも新型コロナで感染者や死亡者が増加し、経済が不況に陥ると、国主導で経済を立て直さなければならなくなる。資本主義経済でありながら、国家が全面的に経済を支援しなければ、不況から抜け出せない事態に陥る。ロックダウンや緊急事態宣言といった自由な活動が制限され、国家の独裁的な振る舞いが罷り通ることになる。
米国のように巨額な経済対策を打ち出さなくては、経済の回復が見通せないことにもなる。需要が落ち込めば、価格が下落し、それに伴い需要が回復し、経済も良くなることにはならないのだ。価格が下落すれば、所得も減少し、さらに需要が下振れすることになる。市場に任せるだけでは、経済の回復はなかなか望めないのである。
需要不足を穴埋めし、経済を上向かせるためには、社会主義的な財政支援が欠かせない。資本主義を任ずる米国も経済介入を強めており、完全な資本主義国とは言えない。いまや、資本主義という仕組みは消えてしまい、社会主義的要素を多分に纏った資本主義といえるような体制になってしまったし、その方向に進まざるを得なかったのである。
財政政策だけでなく金融政策もプライスメカニズムを代表する金利の動きを統制・支配している。金融経済は、資金コストは低ければ低いほど有利なので、金融関係者はゼロ金利に反乱を起こすことはない。ゼロ金利であれば直にゼロ金利政策に従うのである。本来、長期金利はもっと上昇してもおかしくないのだが、2%以下の低水準のままである。ゼロ金利で有利な金融経済は拡大し続けており、実体経済から離れるばかりだ。金利の統制が経済に大きな矛盾を作り出している。資本主義経済を標榜しながら、実際、中央銀行は社会主義的行動を採っているといえる。
1990年代から積極的に導入されてきたITは2000年のバブルを経てもなお発展・拡大を続け、「フィンテック」とか「デジタルトランスフォーメーション」(DX)とか言われる言葉まで現れてきた。こうした新語はなにか未来をバラ色に染めるようにも聞こえるが、物事には表と裏があることに十分留意しておく必要がある。
IT技術は個人を管理・監視する独裁国家にとっては願ってもない技術なのだ。ITが高速・大容量化すればするほど、独裁国家にとっては管理・監視がますます細部にまで及び、より徹底され、支配者の社会操縦は容易になる。だから、中国はITに血眼になるのだ。さらにモノやサービスの供給量や需要予測の計算能力も格段に進歩しており、独裁国家の経済運営は進歩しているはずだ。ITが独裁国家の命運を握っているといえる。
資本主義経済は自由放任をモットーに発展してきたが、ITによって、いつのまにか消費者の内部にまで巨大IT企業が入り込むに至っている。消費者嗜好の把握に長けた企業が独占的地位を確立してきたが、あまりにも企業規模が大きくなれば、企業の社会支配力は強まり、民主主義ではあるが、いつのまにか民主主義が侵食される事態に陥りつつある。
ITが経済成長にプラスに作用するといわれているが、先進国の長期の成長トレンドは低下しつつあり、ITの寄与は大きくはない。ITの登場はそれに関連するモノやサービスを生み出したけれども、迂回生産の拡大により、付加価値は低下しているのではないか。
データセンターやパソコン等のIT関連消費電力は膨大であり、ITは決して電力節約型ではない。『情報化社会の進展がエネルギー消費に与える影響』(国立研究開発法人科学技術振興機構、2018年3月)によれば、2030年には、世界のIT関連機器だけで現状の総世界電力需要の2倍弱を消費すると予測されている。さらにIT関連機器は陳腐化が速く、買い替えが頻繁に行われ、膨大なIT廃棄物が排出されている。電力消費不足とゴミというITの負の側面があらゆる政治経済体制を揺るがすことになりかねない。
資本主義も独裁主義もITに夢中になっているが、問題はITそのものにあるのだ。すでに述べたことのほかにもITリスクはいくらでもある。長時間、机に向かい、モニターを見つめ、キーボードや画面をスクロールする操作を続けていくことになれば、人間の本来の身体機能や能力は低下していくことになるだろう。すでに産業革命以降、機械に頼ってきたことから、もの作りの分野では昔のようなすぐれたものが作れなくなってしまった。こうした傾向はこれから一層強まるだろう。すぐれたものが作れなくなることは、文明が廃れていくことだ。ことITに関してとらえれば資本主義も独裁主義も同じ境遇にあるといえる。過去を振り返って、今一度、手作業によるもの作りを再構築することが、これからの社会を乗り越えていく上で欠かせない最重要課題だと思う。ITに傾注すればするほどITに魂を奪われ、人間はもぬけの殻になる。