命より電気が大事な政府

投稿者 曽我純, 4月10日 午後8:35, 2011年

政府と東電は原発から出る放射性物質を封じ込めることができず、大気、大地から海にいたる地球全体を放射性物質で汚している。政府はCO2排出量の削減を図るという大義名分を掲げ原発を推進してきたが、その結果が放射能物質の放出となった。反原発にはまったく耳を貸さず、戦前の日本陸軍の盲進になんら変わらない覇道が、放射能物質で国民を苦しめることになった。

事故を起こしても自らの力で処理し解決できないような恐ろしいものを扱う傍若無人さ。無茶苦茶なことをやらかしてあとは他人任せという無責任さ。こうした態度は80年代後半の金融機関の行動となんら変わるところはない。その後の後始末には何十年もの年月を要し、日本経済は疲弊してしまった。長期的に経済成長率が低下している過程で、不良債権というとてつもなく大きな深い穴を塞ぐために、そこに金を注入しなければならなかったからだ。まさに金をどぶに捨てるようなものであった。本来であれば、少しは有効につかわれた金が過去の巨額の付けのために消えてしまった。早い段階で金融機関を清算し、膿を出し切っていれば、その後の日本経済の足取りは少しはましになっていただろう。

不良債権処理に失敗した教訓が今回の原発事故にまったく活かされていない。金融機関の出すデータを鵜呑みにし、事の本質を摑む努力を怠ったことが対応を中途半端なものにしてしまい、病巣にメスをいれることができなかった。

東電が発表するデータに信憑性はあるのだろうか。すべてのデータを隠すことなく、また改竄・捏造することなくだしているのだろうか。原発の核心部分はだれもみることができないので、原発の状態を判断する材料はデータしかない。いままでの東電の公表からは、不動産・株式バブル破裂後、金融機関の隠されたデータと似たような危惧を感じる。データの不十分・不徹底な開示が、事故処理を遅らせ、不適切な対応を招いているのではないか。政府はいまだに原発のデータを東電に任せているが、これでは真相は摑めない。無為無策のまま時間だけ過行くなかで、放射性物質の拡散は続き、環境はますます汚染されることになる。

垂れ流ししている放射性物質を封じ込めることもできず、その先、原発の解体にいたるには気の遠くなる時間を要する。不良債権処理と同じように、ブラックホールに金を注ぎ込むことになる。だが、不良債権は消えてなくなるが、放射性物質はなくならず、永久に封じ込める作業を続けなければならない。未来永劫に封じ続けるためのコストが掛かるのである。

地震多発の狭い国土に原発を55機も抱えていることは、日本は内部からの核攻撃の危険に常に晒されており、しかも大量の核廃物を管理しなければならない宿命を負わされていることである。原発がひとつでも破局的な事態に陥れば、そのとき日本は終わりになる。この期に及んでも、まだ原発を運転し続けるとは、政府は「安全な原発」という金科玉条を固守していることだ。政府は電気が命よりも重いと考えているのだろう。 

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曽我 純

そが じゅん
1949年、岡山県生まれ。
国学院大学大学院経済学研究科博士課程終了。
87年以降証券会社で経済・企業調査に従事。
「30年代の米資産減価と経済の長期停滞」、「景気に反応しない日本株」(『人間の経済』掲載)など多数