野田首相が拘るのは消費税率の引き上げだけだ。喫緊の問題が目白押しだが、「税と社会保障の一体改革」というキャッチフレーズを掲げ、原発等からこちらに国民の目を逸らせようとしている。議員数や公務員給与の削減も手付かずで、税金だけ上げようとする。予算や特別会計の大胆な削減や組み換えにも踏み込むことはしない。
原発で多数の人が生活を奪われ、苦しい生活を余儀なくされているが、原子力委員会、原子力安全委員会、原子力安全・保安院などのトップは変わらず、責任の所在は明らかにされないまま、のほほんと暮らしている。事故後も東電会長は居座っており、日本の組織は完全に無責任体制下に置かれているといえる。東電はすでに自力で経営することができないにもかかわらず、依然存続させている。東証は東電を上場させたままであり、これでは資本市場の冒涜以外のなにものでもない。東証も東電と同じ穴の狢だ。これだけの原発人災が起こって約10ヵ月経過するというのにこの有様だ。成すべきことを放置して次から次へと新たな課題を持ち出し、過去を糊塗するやり方である。問題を徹底的に解明することなく曖昧なままの状態にしておく、これが政治家の常套手段なのだ。人の噂も75日といわれている日本人の特性を政治家は十分に心得ているといえる。
ケインズは『一般理論』の序の最後を「著者がここに苦心して表明した諸観念は、きわめて簡単であって、容易に理解されるはずである。困難は、新しい観念にあるのではなく、大部分のわれわれと同じように教育されて来た人々の心の隅々にまで拡がっている古い観念からの脱却にある」と締めくくっている。原発になにの疑問も抱かず、安全を信じ込んでいた専門家たちの「古い観念からの脱却」を願う。人命や生活を根こそぎ奪ってしまう原発の恐ろしさ、しかも永久に元の場所に戻ってくることができなくなる。核廃物は永久に保存管理しなければならない。このような大問題を抱えながら原発を造り続けた無思慮な専門家の「古い観念からの脱却」が不可欠だ。
大企業経営者も依然、原発容認派が圧倒的である。「古い観念」にどっぷり浸かったままである。1990年代、金融機関は実質的に破綻したにもかかわらず、そのときの教訓がまったく活かされていない。金融機関の株式保有は減少したとはいえ、オリンパスのように金融機関の支配力は強く、株主として企業に影響力を行使できるが、傍観者の態度に終始しており、金融機関の体質もオリンパスと同じであることがわかる。
日本の政治も経済も「古い観念からの脱却」ができないまま、日本全体が沈み込んでいる。沈み込みを止めることができるのは、沈んでいる現実を直視し、もがき苦しみ、活路を見出すことができるかどうかに掛かっている。「原発推進」から「原発廃止」に舵を切り、湯水のように電力を使う生活から無駄を省く生活様式へと「古い観念からの脱却」を図らなければならない。大規模小売店やコンビニの営業時間、自動販売機、ネオン等々をみると、節電が継続されているとは言いがたい。生活全般にわたって、3.11後に変わったかというとそれほど変わってはいない。ペットボトルのお茶を飲み、コンビニでおにぎりを買うような生活は慎まなくてはいけない。変わらなければいけないときに変わらなければ、生活が持続できなくなる。いつまでも曖昧な姿勢を続け、価値判断を避けるならば、日本社会は舵を失った船のように大海をさ迷うことになろう。
価値判断のできない政治が、官僚支配・官僚政治をのさばらせている。原発関連の審議会や委員会の振り付けは経済産業省や内閣府の事務局に任されている。だから、いつまでたっても原子力安全委員会の委員長や委員が変わらないのだ。人事権は首相や閣僚の最大の武器だが、ほとんど使用しない。そうすることで民主主義的な要素を政治に注入することができるのだが、残念ながら、政治は官僚に言いなりで無力である。日本の政治は、選挙で選ばれていない官僚が、政治を実質的に支配しているという民主主義とは掛け離れた意志決定機構になっているのである。
1980年代のバブル形成から金融危機に陥るなかで開かれた大蔵省や経済企画庁の一連の審議会等の委員長や委員をながめると、同一人物がバブル前も後も同じ椅子に座っている。バブルをバブルでないと正当化していた人物が、バブル崩壊後も知らぬ顔で居座り続けていた。今回の原発でも同じことが繰り返されており、「古い観念からの脱却」はまたしても頓挫してしまった。いつになれば、官僚支配に止めを刺し、国民のための政治を実現することができるのだろうか。政治家は選挙という洗礼を受けているが、出馬する人まで選ぶことはできない。本当に政治家になってもらいたい人が出馬すればよいのだが、そうではない人も出馬し、選挙に勝ってしまうこともある。民主主義を実現するための選挙が政治屋を選出し、特定の集団に利益誘導するぼったくりのような政治が蔓延することになる。
命よりも金を大事にする政治屋は排除していかなければならない。原発を抱えた地方自治体の首長等の選出に原発マネーか命かを判断基準にして選ぶ必要がある。村や町全体の消滅リスクをなくすことより仕事や金を採るのであれば、それはあまりにも大人の身勝手な行動だ。そのような決定を下せば、乳幼児の生きる権利は踏みにじられてしまう。弱いものの立場に立って価値判断をすることが大人の責務ではないか。命にかかわることは多数決で決めてはいけない。みな同じ掛け替えのない命を育んでいるのだから。