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森野 栄一
何事にも始まりというものがあります。もちろん、神様は除きますが。しかしお金は神様ではありません。当然、始まりというものがあります。お金はどこかで生まれているのです。
食べ物とか、着る物とか、靴とか本とか、そういう役に立つ物がどこで生まれるのか、誰もが知っています。ひとが欲しがったり、ひとに欠けていたりする富や物を、国じゅうの勤労者や機械や自然資源が生み出しているわけです。
では、お金はどこから生まれるのでしょう。ひとは必要としている物があるのに、これを手に入れるのに必要なお金が足りないといって嘆いているわけです。これは物事をよく考えてみもしないで、感じているところを語っているようなものです。まず、決まった量のお金があるということ、そしてそれを変えることはできないと思いこんでいるのかもしれません。まるでお日様や、雨とか気温とかのように。
しかし考えてみる必要があります。
お金があるということは、どこかで作られているということでしょう。
もし、それ以上ないというなら、お金を作る者がそれ以上作ってないということでしょう。
それにもうひとつ。ひとがお金について考えるときは、お金を作っているのが政府だと考えがち。でも、これも勘違いです。いま政府は補助通貨を除いて、お金を作ってはいません。だって、お金がないっていつも嘆いているじゃないですか。お金が作れるんなら、どうして政府や地方自治体の借金がGDPの120%にもなるという、とんでもない額になっているんでしょう。政府は税金を取ったり、お金を、国債を発行したりして借り入れたりしてるけど、お金を作ってなんかいないんですよ。
じゃあ、どこでお金が生まれて、どこでなくなるか説明しましょうか。
お金の生と死をコントロールしている者がお金の量を決めているんです。お金を増やしたり、減らしたりしているとすると、そこに利点があるからなのです。
お金を作る以上に破壊していけば、お金の量は減りますよね。お金が足りない国での生活水準は物じゃあなくて、お金で決まっています。物を買うときにお金を使いますね、そのお金次第なんです。だからさ、お金の量の水準を決めている者がぼくらの生活水準を決めているわけ。
お金をコントロールする者や信用がぼくらのご主人様になるってわけ。
その許可なくばもはや息すること能わず、ってとこかな。
じゃあ、そのエライご主人さまは誰かな、ひとはそれを、「金融システム」って呼んでますけど、はやい話が銀行なんですよ。