金と云ふもの

今日の引用、カネについて、2016-04-12

諸岡存の「精神病学から見た邪教迷信」(仏教社会学院編、『新興類似宗教批判』所収、昭和11年)から引用。
昭和11年に行われた講演からなので、時代的に今日からみると若干、言葉狩りの対象になりそうな表現があるが、わかりやすい主張。

「・・・何でもかでも金でやる為に今困つて居るのです。が、此の金と云ふものは価値のないものです。今金が非常に高くなつて居ますが、是を食つたつて美味くも何ともない。指輪にするとキラキラ光つて居るけれども、或る場合には邪魔になります。

そ れぢや紙幣はどんなものかと云ふと、不潔な物です。黴菌の凝りです。癩病の人も結核の人も持つた物です。此の札を非常に大切にして、それを貰ひたい為めに 孜ゝ(しし)営々として皆な働いて居るのです。其の汚れた札、不潔な札、癩病患者が持つた札、結核患者が持つた其の札でも、持つて行けば、お菓子も呉れる し、天丼もそれで配つて来ますから、「天丼を一つ呉れ」と汚れたのをやるのです。是は天丼が欲しい為めにやるのです。併し、此の世の中には悪政治家が沢山 出て来て、札の価値が無くなる。日本銀行が空つぽになると、独逸のやうに何もかも無くなつて了ふと、此の札は空になつて了ふのです。ですから、札其物が尊 いと皆様は思つて居るが、札が尊いんぢやない、国家が尊いのです。其の国家が背景にないと、札は価値がないのです。其の金を取りたい為めに、皆な働いて居 るのですが、其の金が尊いと思つて金の為に働いて居ると是はParanoiaです。今日の経済学は金貨本位です。金貨本位に考へなくては、法律も理財学も 成立たないのです。だから其の金貨と云ふものは、間違つた考から出発しているのです。金に値ひはないのです。全く値ひのないものを値ひのあるものと仮定、 約束、約束ぢやない勝手に決めたのです。それを我々は盲信して居る。何の為めにやるか解らないが、兎に角札を持つて行けば呉れるだらうと思つてやつて居る のですが、呉れない場合もある。其の札を良いものと思つて利息を付けて、其の利息の為めに働いて居る。皆様が働いて居るのは此の利息の為めに働いて居るの です。・・・」