無尽講

マネーシステムや地域通貨に関心がある者にとっていちばん興味があるのは無尽講だと思う。起源は諸説あるようで、なかには中世、寺院が檀家を相手に組織させたもので、尽きることなくカネが湧いて出てくるから無尽といったとかと指摘する人もいる。

しかし、カネがからむと、人間の善人にも悪人にもころぶあやういその性も露見する。

江戸時代の考証随筆家、喜多村信節が文政13年に刊行した『嬉遊笑覧』にもそれが出ている。「無尽金を企 其上金子之肝煎等致し逐電仕むさぼりたる儀」で死罪になった者など、明和年間に無尽講が流行ったころの世相に触れているし。

此の頃はすでに現在あるように、無尽講は共済システムではあるが、掛け金を入札で落とし借り入れるような融通の仕組みで、「たのもし無尽と名付けて貧なるもの有徳なる者をかたらひ金を持寄座中に出し百両も二百両も積置皆入札を入 是を買取る有徳なる者は貧なるものにたかふ買はせ毎月金の利足とるを悦び貧者は持たぬ金を得るこヽちして歓ぶはやりものなれば いかなる人も五十口三十口無尽に入 扨又無尽好む人達は一人にして百口二百口するなり」とあり、貨幣経済が発展する江戸期にあって、財テクのひとつになっていた。

そんななかで、無尽をいましめる古老を喜多村が記録しているのは興味深い。

(下記引用、いい文章なので誤読を避けるために、文章の切れ目で改行して引用しておきたい。)

「己が有を有として貪らず
是先賢のいましめなり
夫(それ)無尽といふ事は貧なる者のたくみ出せる悪事なれば矛盾と名付たりしを
此わざ好む者が無尽と文字を書かへたり云々
人と中あしき事をむじゅんといふ
是により無尽のある年は必(かならず)国にさはがしき事あり云々
[この歳元和元年なるべし]見えたり同意して行ふ事を矛盾と呼むこといかゞなり
何ぞ其故ありしなるべし」

無尽の語源を矛盾とする説である。人と仲が良くないことを矛盾というんだ、無尽に熱中しているような世の中は騒擾の時にある、人があいまみえ約束を交わして行うかけひき、それは人の関わりの矛盾を示すのに、無尽といいかえる。どんな理由があるんだ、と。

カネである。カネの故であるといわねばならんなあ。

「己が有を有として貪らず」(古老はまるでムスリムのように語っているなあ)

い〜言葉と聞くか、辛気臭い言説と受け取るか。これも人が内に抱く矛盾であるかもしれない。

(森野榮一)