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プルードンの貨幣改革について

::藤田 勝次郎  

Q よくゲゼル理論の先駆者のひとりとしてプルードンの名前があげられるのですが、今日はその辺のことを聞かせてくれませんか。

A 確かにゲゼルは、プルードンだけではないでしょうが、彼から影響を受けていることは確かですね。ゲゼルの主著のひとつに『自然的経済秩序』という著作がありますね。その序文でプルードンについてふれているところがありますが、ゲゼルは、プルードンとマルクスを引き合いに出して、プルードンは今日完全に忘れられているわけではないけれども、「それは正しく理解されてはいない」といって、プルードンをもう一度現代に蘇らせなければならないといっています。

Q ゲゼルはプルードンのどんな点に注目したのでしょうか。

A もちろんそれはプルードンの貨幣改革論です。少し難しい話ですが、プルードンが「商品と労働を通貨の水準にまで高めることによって、貨幣が行使している特権に打撃を与える」ために、途中で挫折してしまったのですが「交換銀行」とか「人民銀行」という組織を作って、それを実現しようとした点です。ゲゼルは、そのようなプルードンの貨幣改革の理論と実践の双方を評価するのです。

Q 初っぱなから難しくなってきましたね。この機会に、ゲゼルの評価しているプルードンの貨幣改革論や信用改革についてわかりやすいように話をしてくれませんか。

A プルードンはもちろんゲゼルより前の人です。彼が執筆活動をしたのは、1840年前後から彼がこの世を去った1865年までのおおよそ25年間なのですが、この時代のフランスでの大きな出来事は、いうまでもなく1848年の二月革命ですね。プルードンはこの二月革命を一貫して冷ややかな目で見ていました。

Q どうしてですか。プルードンは革命の側に立ったのではないのですか。

A 彼は政治革命としての革命には反対し続けました。二月革命も政治革命の方向へ流されているとみたのです。政治革命は権力のにない手の交代にすぎず、権力そのものの変革ではないからなのです。それは現代でも「社会主義」革命と呼ばれていたものの実体が何であったのか思い出せば解りますね。それは、ひとつの抑圧機関に変わる別の抑圧機関が、しかもそれ以前よりもいっそう抑圧的な機関ができただけでしたね。

Q よくプルードンが主張したのは「社会革命」とか「経済革命」とよばれるものだと聞いたことがありますが、それは政治革命とは違うのですか。

A まったく違います。社会の経済関係のもとで、人間は相互にさまざまな活動を通して同等な関係を結んでいます。同じ価値を持ったものを相互に交換する「等価交換」という形式のなかにそれははっきり示されるのですが、プルードンはそうした人間相互の同等性をそのものとして社会の組織のなかに実現してゆくことを相互主義という言葉で示しているのですが、政治権力のもとでの支配-服従の関係は、この相互性とは反対ですね。その意味で彼は権力そのものに対する批判をし続けたのです。

Q その辺はこれくらいにして、早くプルードンの貨幣改革論に進んでくれませんか。

A 申し訳ありません。でもこのような話を回りくどくしましたのは、これが貨幣改革論に大いに関係があるからなのです。プルードンが「権力」とか「権威」と呼ぶものは別に政治の世界に限ったことではないのです。それは経済の世界にもみられるのです。  仮にいまAが商品をもち、Bが貨幣をもっていると考えましょう。両者が市場で取引する場合、商品をもっているAよりも貨幣をもっているBの方が有利なことはいうまでもないですね。プルードンはこうした場合、貨幣は商品に対してつねに「交換可能性」をもっているからだと考えました。貨幣をもってさえいれば、いつでも、また誰からも商品を容易に手に入れることができますね。この「交換可能性」は今日の言葉で言えば、「流動性」といってもよいでしょう。貨幣はいつでもあらゆる商品に交換されるという意味で、「流動性」は100%ですね。それに対して商品財貨は必ずしも販売されるとは限らないという意味で、貨幣に比べてあまり「流動」的であるとはいえません。つまり商品と貨幣はその意味で「同等性」をもっていないことになります。従って先のBがAに対して優位に立つという意味で、二人は「同等」ではないことになります。プルードンはこのような貨幣の商品に対する優位性を貨幣の「王権」と呼び、政治権力のもとでの支配-服従にも似た関係が経済の世界にもあると考えました。

Q 今までの話は一応分かったように思います。では、このことが彼の説いた「交換銀行」や「人民銀行」とどう関わりをもつのですか。

A おおいに関係があります。彼の「交換銀行」や「人民銀行」は、貨幣の商品に対してもっている優位性=権威を喪失させようという意図をもつものだからです。しかも、この問題を彼が提起したのが、二月革命の時だということは大きな意味をもっていますね。つまり、さっきもいいましたようにプルードンは二月革命が権力=権威の廃棄ではなく、その「交代」にすぎないと見ていましたね。しかも彼にとっては権威は政治的権威だけではありません。経済的権威も(さらに宗教的権威も)等しく廃棄されなければならないと考えました。それが「社会革命」なのだと考えたのです。

Q では彼の貨幣改革を目指す「交換銀行」は、何という著作で提起されているのですか。

A プルードンは二月革命の少し前から何人かの仲間と機関紙の刊行を始め、途中政府の圧力によって休刊を余儀なくされ、合計4種の機関紙を相次いで刊行します。この機関紙のひとつに『人民の代表』という名の機関紙があるのですが、1848年4月に「信用と流通の組織 社会問題の解決」という論文を6回にわたって発表するのですが、そこではじめて「交換銀行」の構想を明らかにします。この論文のほか、同じ機関紙に「交換銀行の定款の計画」、「交換銀行」という論文を発表し、そこで細部にわたる銀行組織についてふれています。

Q ではいよいよその「交換銀行」という組織について説明して下さい。

A そうですね。「交換銀行」についてふれる前にあらかじめお話しておきますが、プルードンは「交換銀行」の構想を明らかにした翌年の1849年に「人民銀行」と名前を変えて新しい銀行について発表したのですが、この二つの銀行は本質的に大きな違いはありません。「人民銀行」は「交換銀行」の改訂版だという人もいます。けれどまったく同じというわけではありません。その点はこれからお話ししましょう。

 「交換銀行」はその設立の趣旨や定款に賛同した人びとと銀行との間で交わされる契約によってこの銀行への参加が決まります。この銀行は、すべてがこの加入者の意志によって運営され、国家から完全に独立した自立的組織です。資本金をもちませんし、また営利を目的にしません。この銀行は、加入者の「受領ないし販売した生産物、また引き渡された、あるは近日引き渡されうる生産物の価値を表すあらゆる商業手形と交換に」「交換券」(bon d'echange)と名付けられた一種の銀行券を発行し、それを受け取った人は、それと引き替えに永続的にこの銀行に参加する別の人のもつ商品サーヴィスを手に入れることができますし、またその逆も可能となります。「交換券」には、20、100、500、1,000フラン券があり、端数だけが通常の通貨で支払われるほか、通貨は一切使用されません。また「交換銀行」は、さきに話しましたように営利を目的にするものではありませんので、「交換銀行」のサーヴィスを受けるには、参加者がほんのわずかの手数料、銀行業務を行うに必要な最低の経費にあたる手数料を支払うだけでよいとされます。

Q その場合、「交換券」が過剰に発行されてしまうことはありませんか。

A プルードンによれば、それはありません。といいますのは、「交換銀行」は、つねに商品サーヴィス手形の時価に見合う「交換券」を発行するので過剰発行は原則としてないと考えています。

Q それともうひとつ。銀行が「交換券」を発行するときに商品サーヴィスの「時価」をだれが、どのように決定するのですか。それらの価格を銀行が算定するのですか。

A よいことを聞いてくれました。この点は難しいのですが、大変重要なのです。プルードンによれば、「交換銀行」はそのような価値ないし価格決定にはいっさい関わりません。それはすべて市場のもとで決定されなければならないと考えているのです。「交換銀行」がそのような価値決定の権限をもつことは、それに不当な権威が与えられると考えたからです。プルードンは、どこでも市場を廃止しようという主張はしません。なぜならば、市場は個人の自立と自由の一面を保証しているからです。  けれどまた、今日の新古典派の面々のようにすべてを市場のメカニズムにゆだねることがよいのだとも考えません。例えば、「交換銀行」が参加者の商品と引き替えに「交換券」を発行する場合、原則として市場によって決められた価格に従うことになるのですが、その場合でも、参加者はそれらの商品の原価(「材料費、賃金一般的費用、保険費」などの総額)についての正確な情報を提示することが義務づけられていますし、それらを含めて「交換銀行」の運営の責任は「管理委員会」と名付けられた組織が引き受け、さらに「管理委員会」はつねに「監視委員会」によって点検を受ける義務をもつとしています。つまり、このようなプルードンの考えは、彼が市場の決定を万能視していないことを意味します。彼は市場原理主義をエコノミスムと呼んで批判します。彼は「統計」や「経済計算」に強い関心を持っており、それらによって得られる経済的データが「市場の誤り」をつねに人為的に修正するものと考えたのです。プルードンは、「交換銀行」がそのように市場に依拠しながらも、同時に人為的操作を加味した運営にゆだねられるものと考えていたのです。  いずれにしても、「交換銀行」は「交換券」の発行の対象となる商品サーヴィスなどの「時価」を一方的に決定するものではありませんでした。

 それに対して、生産を管理し生産物の価値を決定する権限を持つ銀行は、むしろイギリスのオウエンやブレイ、ドイツのロードベルトゥスなどによって構想されました。オウエンやブレイの例を引いてみましょう。オウエンの考えた「国民衡平労働交換所」やブレイの「労働券発券銀行」は、銀行に持ち込まれた生産物やサーヴィスを労働価値論の立場からそれらがどれくらいの労働日に相当するかを計算して、それに相当する労働券を通貨の代わりに発行しようとするものでした。フランスでは、プルードンの前にサン-シモン主義に影響されてマゼル銀行という名の銀行が考えられ、それもオウエンやブレイの「交換所」や「発券銀行」と同じようなものでした。マルクスはプルードンの「交換銀行」をマゼル銀行と完全に同一視し、「それは銀行の専制主義を生むだけだ」といって批判していますが、そのような見当違いのプルードン批判はマルクスのプルードンに対する無知を示す以外のなにものでもありません。

Q 難しいですね。でも少し解ったように思います。それともう一つ聞きたいのですが、「交換銀行」はお話の業務以外にほかにどんなことを行うのですか。

A そうですね。「交換銀行」は、市場で買い手の見つからない生産物、つまり余剰となった生産物を購入することで農工業者を救済します。その場合銀行が買い取る価格は、原価の80%であると定款で定められています。それ以外に、当然のことですが、「交換銀行」は、商工業経営者や農民に長期の「資本貸付」や不動産を抵当とした貸付も行います。その場合、貸付はいずれも「交換券」で行われ、その利子もきわめて低いことは申すまでもありません。

Q この「交換銀行」の計画は結局どうなったのでしょうか。

A はい。これはさっきも申しましたように、プルードンが1848年に計画を練ったものですが、ちょうどそのころ彼は、ボナパルトらとともに補欠選挙で当選し、二月革命後の国民議会の議員になります。そこで48年の7月と8月に国民議会にこの計画の実現を訴えますが、否決されてしまい、実現をみませんでした。そこで、それを機会にプルードンはこの計画を練り直し、翌年「人民銀行」と名を改め再出発します。

Q 「人民銀行」は「交換銀行」とどんな点が違っているのですか。

A 先ほども話しましたように、両者は本質的な違いはありません。しかし、細部についていくつか違うところがあります。両者の違いで一番大きなことは、「人民銀行」の場合加入者の制限が設けられたことです。つまり銀行は不特定多数の人に対してその業務を行うというのではなく、はっきりと「人民銀行」に加入する意思を表明した人に対してその業務を行うということです。

Q 「交換銀行」の場合は参加者は無制限だったのですか。

A そうです。この銀行のサーヴィスを受けたいと思う人は誰でもそれを受けることができると考えられました。

Q 「人民銀行」の場合はそうではないのですか。

A 「人民銀行」はいっそう協同組合の色彩を持ち、加入者はあらかじめその意志を示したものに限られます。それと「株」を発行し、それを所有した人がプルードンとともに「人民銀行」のオーナーとなります。先の「交換銀行」は資本がなかったと申しましたが、この点でも両者は違っていますね。「人民銀行」は500万フランの資本を持ちます。それは、100万の5フラン株に分けられ、引受人に渡されます。ただこれは何の利益を伴うものではありません。

Q 「株主」と「加入者」はどう違うのですか。

A 「株主」は今いいましたように「人民銀行」の資本を提供する人ですが、「加入者」は一種の協力者です。それらの双方とも銀行からの便宜供与を受けることができます。

プルードンは本来「人民銀行」の場合も資本なしで設立することを望んでいたのですが、さきにいいましたように、現実にこの銀行を設立する場合、現実にある法規に従わざるをえないことが出てきます。この資本金も当時のフランスの法規を念頭に置いた現実とのやむをえない妥協であったといえましょう。

Q 「人民銀行」も先の「交換銀行」と同様の「交換券」を発行するのですか。

A そうです。ただ名称が「交換券」から「流通券」に代わっていますが、機能に大きな変化はありません。ここでちょっとお話ししておきたいのですが、そもそも「交換銀行」という名称を「人民銀行」に変えた理由は、プルードンがこの銀行が「上から」国家によって作り出されるものではなく、社会によって「自生的に」作られるものであるということを名称の上でもいっそうはっきりとさせたいと考えたからです。

Q 「人民銀行」の仕事は「交換銀行」の場合と同じですか。

A 大筋から見て大きな変化はありません。定款によれば、「人民銀行」の発行する「流通券」は、「返済としてであれ、前貸しとしてであれ」、次のようなものに対してであるとされています。それはもちろん先にいいました「株主」と「加入者」に対してですが、「商業手形、受け取った送り状、委託商品、協同組合などの共同債務、補償金、年金」などです。この場合銀行は管理費として2%の「利子」を得るとされれていますが、その額は4分の1%まで漸次削減されるとしています。限りなく利子率をゼロに近づけようというのです。プルードンの考えた銀行計画は「無償信用」論の具体化だといわれていますね。そして「人民銀行」の発行した「流通券」は通貨と同じように加入者のもとで流通します。

Q 今のお話の「加入者」のもとで流通するといっても、その「加入者」とか「株主」とかを互いにどうして識別するのですか。

A 実際、プルードンは「人民銀行」の設立準備を進め、その場所をフォーブール・サン・ドゥニ街(ここは今でも労働者街なのですが)に決め、その定款を公証人に提出し、「株主」と「加入者」を募集するのです。これは大変評判を呼び、27,00人の「加入者」を集めたといわれています。プルードンは、これらの「加入者」の名の一覧表を事務所に提示し、さらに「加入者」各人の家のドアーの横に「加入者」であるという標識を出すように決めていました。それを見て「加入者」は自分が手に入れた「流通券」を使って取り引きすることができると考えたのです。

Q この計画は実際実現したのですか。

A 残念ですができませんでした。といいますのは、プルードンが自分の機関紙『人民』に書いた論文が、大統領に就任したボナパルトを誹謗しているということで、裁判にかけられ、有罪の判決が下され、入獄を逃れて一時ベルギーに亡命します。そんなことがあって、彼は「人民銀行」の実現が不可能となったと判断し、やむなく1849年12月機関紙の紙上で「人民銀行」の清算を発表するのです。

 それ以後彼はこのような計画を立てることはありませんでした。けれども、このような貨幣改革への意図はいろいろなところに広がります。例えば、この「人民銀行」の計画が立てられたすぐあとで、マルセイユで「ボナール銀行」(Banque Bonnard)という銀行が設立されましたし、また半世紀後になりますが、1894年ドイツのライン・ファルツ州にハルクスハイム・ツェル(Harxheim Zell)にヴァーレンバンク(Warenbank)----「商品銀行」といってよいのでしょうか------という銀行が設立されましたが、それらはプルードンの「人民銀行」の影響を強く受けているといわれています。

Q このようなプルードンの貨幣改革論は、当時のフランスの経済学者によってどのように受け取られたのでしょうか。

A これにつきましては、プルードンとバスティアという経済学者との間で交わされた有名な論争があるのですが、それについてはまた別の機会にお話ししましょう。ただ一言だけふれておきますと、バスティアのような経済学者にはプルードンの「人民銀行」設立の理論的背景になっている「無償信用」論がまったく理解できなかったということです。

 最後になりますが、プルードンの「交換銀行」についてマドール(Madol)という名のある輸出業者がプルードンにあてた手紙を紹介しておきましょう。

「あなた(プルードン)が考えているような、通貨なして済ませるという考えは、別に新しいものではありません。この道の本職は何年も前から通貨の必要性は社会組織の欠如に他ならないといっております。私は、すべての人びとが勘定の振り替えによって互いに決済できるような社会を考えております。どのような形でも、あなたは公衆にこのような考えの旗を高く掲げ、この実現のための計画を提起した最初の人であるという栄誉を与えられるでありましょう。」

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