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規制緩和と国民の気分

::森野栄一 Morino,Eiichi

官僚の過剰な干渉でもなく、マネタリストによる貨幣の権力でもなく

「図書新聞」、第2334号掲載、1997年3月15日

グローバルスタンダードの不可避性?

 時代には特有の空気があるのか。規制緩和は大方の唱えるスローガンであり、異論の余地なき時代の流れのようにみえる。それは、地球大の規模での大競争の時代、グローバル・スタンダードに合わせなければ、日本経済は敗北するほかないという危機感の現れのようだ。全産業の5割を超えるまでなんらかの規制が被せられているこの国の経済を変革できなければ未来が開けないという。そして、これを督促するかのような動きが昨年来の株式市場であったともいわれる。

 昨年一年間、各国の株式市場はどこも10%から30%の値上がりを示していたのに反し、ただ東京市場だけが例外で下げていた。それでも平均21000円前後で推移してきたものが、年末になると株価は急落し、年明けには17000円台にまで下げた。昨年央頃から外国人投資家はそれまでの買いから売りに転じていたが、これは日本経済の先行き不透明感と改革を唱えながらも、結局は実行できそうにない政府をみてのことか。彼らからみれば、日本は規制緩和を唱えても口先だけで、実際に経済構造を変えることはできなかろう、ならば売りだとなったようだ。確かに行財政改革にみられる政府の姿勢をみれば、整備新幹線の着工を決定したりと、相も変わらぬバラマキ予算、これでは行財政改革や規制緩和、金融制度改革といった構造改革が不可避と唱えても、それは口先だけ、と思われても仕方ない。さらには、特別減税は打ち切り、消費税のアップなどによる9.5兆円にものぼる国民負担の増加を決める。これでは民間主導の景気回復にもブレーキがかかる。日本株を買う理由など見あたらないということかもしれない。だが、よく見てみれば、国際標準への対応を果たしている大企業の株価だけは堅調で、規制のある業界の株価は、銀行、建設を筆頭に下げていた。

 もちろん相場は上下するのが当たり前だから、こうした理由で本当に変動したのか、それを吹聴することが投機筋の思惑通りに相場を動かすことになったのかはわからない。しかし誰もが改革などできそうにない政府をみ、翻って規制緩和などの改革を通して世界標準に日本を摺り合わせていかねばならないという気にされたことは事実だろう。そして腐敗した官僚の不祥事を聞かされるにつけその気持ちは強まったにちがいない。しかし他方では、国民にとって規制緩和がなにを意味するか考え込まされもした。

世界を制覇するマネタリズム

 いま振り子は右に揺れ切っているようにみえる。世界的な金融部門の自由化の流れは自由市場への信頼を醸成しているが、80年代の初期を思い返してみると、振り子はもう少し左に揺れていたように思える。当時はみな、市場の失敗を議論していたのではなかったのか。あまりに急速な改革には実質的な犠牲が伴うことが、特にラテンアメリカの債務問題などから明白となり、金融における市場の失敗に注目が集まっていた。それがいつの間にか自由市場原理への盲目的な信仰があからさまに受容されねばならない空気になっている。当時の懸念は解決されたのだろうか。金融市場における市場の諸限界を示す事例を、ひとはこの間体験してきた。バブルの頃を想起してほしい。我が国の場合、不良債権という非機能化した資金は今日に至るも完全に解決されず、実体経済回復の足を引っ張っているばかりか、いよいよ金融危機本番とすら囁かれる状況をもたらしている。80年代には米国でもスカンジナビア諸国でも、ひとは銀行業務における巨額の顕在的なまた潜在的な損失を見せつけられてきたはずだ。完全に自由な市場が国民とその社会にとって最良のものであるという論証が存在しているわけではない。

 だが他方で、政府の統制のよろしきを得ればよいと国民が感じているわけでもない。国家による規制の経済社会に与える歪みと官僚の腐敗を見せつけられてきた国民は、国家の市場に対する干渉は極力排除し国家を市場に対してより中立的なものにしなければならないと感じている。しかし市場がすべてを解決できるとも考えていない。世界標準にすり寄らなければ日本経済が負けるかのごとき主張は大企業と資本主義信奉者の危機感であって、国民には無縁かもしれないのだ。そこでひとはグローバルスタンダードの内実を振り返ることになる。

 そこにあるのは世界大のマネタリズムの勝利であり、人間社会や環境に金融経済が対立している姿である。その中で、先進諸国での所得格差をみてみれば60倍にもなるという。勝者と敗者のあいだの格差が拡大する一方なのだ。生み出される敗者の数も大量で、例えば、欧州は1000万の失業者を抱え、5000万の人間が貧困状態にあるといわれる。地球規模でみれば、世界人口の2割をなす最も富んだ者たちがすでに世界の所得の79%を領有している。そして、同じく世界人口の2割をなす最も貧しい者たちはその0・5%しか自分のものにできていないのだ。米国一国でみると、最も富んだ1%の人間たちがすでに国民の富の40%を手に入れている。

 グローバル化した金融経済のなかでは私的個人の富裕化のみがひたすら追求され、より活発に新たな収益を生みだすための投機がみられる。彼らの信念は財やサービスの実質的な生産に対する金融の特権であろう。生産は富の創造や人間の欲求の満足につながってはいない。それは、貨幣上の所得を生み出すことしか目的とせず、その収益は世界的な金融システムを強化するのに日々役立っている。世界大の金融システムを強化するかたちで収益を実現する金融取引が生産をコントロールし条件づけているのだ。生産は人間や人間社会、また生態領域の欲求に応えるものではない。

世界標準のツケは国民に回ってくる

 グローバルに活動する企業に政治は無力である。いかなる者をも代表することなく、各国国民からなんの正当性も付与されていない私的権力を企業は確立しているのだ。それは、資本や商品の流通の規制緩和によっている。金融市場では巨大な金融集団は、日々、1兆ドルを取引に投じることで、その50倍もの資金をかき集め、運用する。この額はどの中央銀行の資金力をも上回っているし、各国のそれを足しても届かないものだ。例えば、G7の準備金の総額は40億ドルを越えない。この、グローバルな市場で成立している私的な金融権力は各国の政策までコントロールしようとしている。以前、ムーディーズグループはスウェーデン政府に社会政策の変更を迫ったし、カナダは社会保障費用や行政のコストのドラスティックな切り下げを迫られた。その手段は為替相場での投機であり、彼らの収益を損ないうる社会的、環境的な政策をあえて課す国家の通貨を急落させるやり口だ。数年前、米国で金利の高騰がウォールストリートによって直接引き起こされたことがある。それは金融上の債権者を害するインフレの高騰を抑える目的で行われたのだが、それがまた、連邦政府の債務に係る支払い利息の高騰をまかなうため社会保障支出を大幅にカットする事態をもたらしたことは記憶に新しい。

 こうした国際経済の動きは一つの支配的文化となって、民主的に選挙されたはずの各国政府に影響を与え、だれにもコントロールされることのない私的権力を確立した企業の富裕化という利害のみを擁護しようとする方向へと各国政府を向かわせるものとなっている。世界標準へと国内経済を変えていくことは、こうした流れのなかにあるといえるのではないか。いま各国の民主的システムは国際的な金融権力の全体主義のなかで危機に瀕しているともいえる。それはグローバル化がその過程で、権威的な国家介入の構造を含んでもいるからだ。外へと向かう自由化は国内における抑圧を自動的にもたらさざるをえない面がある。自由な世界市場は国内の産業諸部門の、また地域的な産業の危機をもたらす可能性を常に生み出している。もし、ある国の、あるいはある地域の重要な産業が危機に瀕した場合、政府はその産業によって生きる国民を保障するため補助金の適用を迫られるかもしれない。このことは市民生活にしだいにまとわりつく官僚化と課税強化を推し進めるに違いない。他方で資本の自由化によって制御されざる流動性を与えられた資本には課税は無きに等しい。資本の自由を押し進めることで政府は、結果的に市民に対する課税の強化を図るほかない。世界大の規模のカジノ経済で賭を行うほどの資金などもってはいない各国の市民に私的利益を追求する賭博場のツケが回ってくるのだ。もっとも端的な例は大企業と民間銀行の債務が公的債務に転換されたメキシコの事例であろう。これは国民に負担が押しつけられ、それから出てくる収益が少数者のものとなり、それにかかるコストは他の大多数の負担するところとなったことを意味している。

 世界標準とは、各国国民からみれば、勝利したマネタリズムの姿であり、それはあらゆる権力が貨幣とそれによって収益をうる者へ与えられることを意味している。それは実体経済と市民社会の崩壊をもたらすかもしれず、失業の増加と社会的緊張を生み出すかもしれないものだ。この国は他国に比して3%台の失業率を維持している。しかし規制緩和により世界標準に変わることができれば成長は期待できるものの、失業率は倍の6%台になるであろうという調査もある。規制緩和のもたらす資本主義の再活性化と厳しい競争が必要といわれても、そして失業に脅されても、恐らくは、国民はそれを懐疑を抱きながら聞いているに違いない。

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