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『価原』と貨幣改革

::森野栄一

「天下の良民、金銀の為に游手の奴隷となる」(三浦梅園)

世界を席巻したネオ・リベラリズム

最近、ある自治体の長から、「そろそろお金の仕組みが変わらないといけないですね」という電話を頂きました。過大な債務に財政の自由度を著しく低下させた自治体の現実から発せられた言葉です。

どの先進国も1930年代の危機の記憶に縛られていた頃は、金融システムには他産業に比して厳しい規制を課していましたが、80年代、90年代の金融自由化は、国境を取り払いグローバル化した国際金融の姿を出現させたのでした。これが欧州、中南米、アジアと続く通貨危機を現出させるとともに、金融権力が各国の実体経済にいともたやすく打撃を与えうることを人に知らしめたわけです。

自由な市場経済が驚異的な効率性を実現していることは異論のない事実ですが、他方で、人が貨幣の取引システムに潜む欠陥によって苦しんでいることも事実なのです。このことはとりわけ、この間、新自由主義イデオロギーや規制緩和、市場万能論などが隆盛をきわめ、世界大に拡大した金融のグローバリゼーションがもたらした災厄が、ヘツジファンドの一つ、ロング.ターム.キャピタル.マネジメント社(LTCM)の1998年の破産に象徴される金融危機によって、誰の目にも明らかになりました。国際的な短期の資本フローの代表格であるこのヘッジファンドが、ロシアにまで波及した国際金融危機で、米国政府の救済を受けるまでに1000億ドルを優に超える損失を発生させるギャンブルを展開していたからです。

「短期の資金で利益をあげるのを仕事にしている者たちは、短期の展望をもちがちである」といわれます(ヴィンセント・ヴィツカーズ)。実際この言葉の通り、97年7月、タイから始まった激震は、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、韓国を経てロシアにまで及びましたが、そのたびに、通貨の暴落や動きの速い短期資本の、まるで羊の群のごときパニック状況を、ひとは見せられてきのです。グローバル化した金融市場を管理しなければならない、という方向へと人々の意識は変化してきていますが、相変わらず国際金融市場が、今日、もっとも神聖にして侵すべからざる警察官であり続けている事実に変わりはありません。世界経済は金融市場の利害と基準にしたがって、これにおのれを適用し、振る舞うように強いられています。

しかし、そうした現実のなかでも、金融市場が経済を判断し、管理するただ一つのあり方であるのか、また、市場万能論が最良であるかどうか、を問題にする傾向は強まるばかりです。それは1929年の大恐慌の光景が幻影となって投資家や政府関係者に再び現れ始め、市場のグローバル化が金融・経済危機という体制次元の危機をもたらすかもしれない、という懸念を生じさせているからなのでしょうか。それとも、資本の活動の自由を求める規制緩和論が、フリー、フェア、グローバルというスローガンを世界標準として押しつけ、資本の活動に対する公的制約を減少させ、強者の論理をいっそう通用させようとする傾向があったため、これに反発する市民などの運動が世界各地で生まれましたが、そうした運動の成果によるものなのでしょうか。おそらくその二つとも真実でしょう。

この20年間というもの、金融のグローバル化が経済上の不安を募らせ、社会的不平等を拡大してきたことは、各国の市民、労働者からみれば、明白な事実でした。さらに、それは国によっては、人々の選択する権利や民主的諸制度、公益に責任を負う国家主権を歪め、貶めてきたとさえいえます。そして風向きが変わるまでは、多くの論者たちによって、こうした世界の変化があたかも自然法則であるかのごとく主張され、市民やその代表たちは自分たちの運命を決定する力を奪われてきたともいえます。そうしたなか、国民的な、また地域的な、そして国際的な次元で、新たな規制と統制の手段を作り出すことで、このプロセスにブレーキをかけることが、緊急の課題であるとの意識が生まれてきたのも、当然の成り行きでした。世界的に南北の格差を拡大し、各国のなかでも貧者と富者の所得格差を拡大する自由化とそれを導くイデオロギーは、一面で、社会的なフラストレーシヨンを蓄積し、社会的な内爆の危険性を増加させ、他面で政治的絶望をもたらし、各国の社会経済に二重の脅威を生み出してきたわけですから。

『価原』の再発見

こうした現実のなかで、はるか200年ほども前に一すでに貨幣経済のもつ問題性を鋭く指摘していたある著作が、人々の関心を集めはじめています。三浦梅園の『価原』です。そこにある社会経済に向けた基本的な視点は、二一世紀を迎える私たちに、今日の世界経済の状況を捉え、未来を考えるに際して重要なメッセージとなっているように思われます。『価原』の冒頭に、水火木金土穀、これを六府と云ひ、正徳、利用、厚生これを三事と云ふ。後世の治、千術萬法有りといへども、此六府三事に出でず。

とあります。

ここで六府というは、実体経済そのものと言い換えてもよいでしょう。

投資や投機のために国際的に移動する資金は、為替市場で各国貨幣の売りや買いとなって現れますが、今日それは一日に二兆ドルの規模にまでなっています。この金額のうち実際のモノやサービスの取引にともなう資金取引は、その二%程度にすぎないといわれています、ほとんどの資金が投機目的でカネがカネによって買われ、また売られ動いていきます。そして、その資金となるカネは、国際化した信用創造のメカニズムの中で、銀行間の再預金などを通して魔術のようにひねり出されたものです。そこでは実体経済に何の関わりももたない資金が力を振るっているのです。そうした貨幣に国民経済が多大の影響を受けている事態は、六府がカネの窓になっている姿とみてとることもできます。

本来、貨幣は梅園もいうように、モノやサービスの通商を利便ならしめる、交換手段の役割を果たすべきものです。モノやサービスの社会的な配分を滞りなく実現するにつき、過不足なき貨幣があれば事足りるはずです。梅園もいうように、「金銀の通用は天地よりして観る時は、左の物を右に移し、右の物を左に移すに過ぎ」ないわけです。それが本来の職分をはずれ、人は取引動機にとどまらず、投機的動機などに基づく過大な資金需要を作りだし、これに金融システムによる信用創造のメカニズムが応えています。モノやサービスの社会的配分においては、金銀(貨幣)の多寡は、「多きと少きとかはる事はなく、多ければ多き程、煩しきを増し、その多き金銀に就いて、游手を増し、天地より生ずる財を費す者、次第に出来るべし」と梅園がいうように、なんら実際の経済に規定的な役割をもつべきではないのが理想です。しかし、人は貨幣を渇望し、貨幣に特段の重きをおき(「金あれば成らざることなしと金を悦ぶ心」(梅園))、梅園が游手と呼ぶところの有閑階級や金融仲介業者を生み出すことになります。そうして、この游手の力が世界を動かしているわけです。

グローバル化する金融市場を見てきた人間には、常に脳裏をよぎる文言があります。「貨幣は権力の概念でのみ理解されうる。消費者の掌中では財に優る力であり、創造的な資本家の手の中では、財の生産手段に対する力である。金融資本家、あるいは金貸しの扱うところでは、生産者と消費者にのしかかる権力であるばかりか、また諸国民やその政府に対する権力でもある。」これは英国人のA・K・チェスタートンが、ブレトンウッズの最終協定が成立するさいに、これをウォール街の金融業者たちの勝利と批判した著作で述べていたものでした。

梅園もこう指摘しています。

「天下の勢をとる事を権柄といへり。権とは秤の錘なり。柄とは其錘を自在によくつり合はするなり・今衡は持すれども、懸る者の軽重を秤錘をもて自由にする事あたはずんば、権柄を何にかせん・秤錘は重きをまさず軽きを加えず軽ければ軽きに従ひ、重ければ重きに従ひ、っり合ひをつけて平を持す。もし権柄を執るのへ米粟布帛、百の器財、費用と金銀と、其つり合ひを見て・多少其宜しきを得せしめば、増減に従つて平を得べし。此故に、秤錘をかへよとにはあらず軽重に従ひてつり合ひをとる事なり。これを執権柄といふなり。然れば金銀の多少は、強ひて有国者の患とすべきことにあらず唯、金銀の用は何物ぞ。米粟布帛、百の器財、庸作の用は何物ぞと察すれば・金銀の盛に行はるるの有益無益知るべきなり。今、金銀の通用を好むこと、独り日本のみならず、萬国同じく然り。 」

財や労働、生産、消費という経済の実体に対して、貨幣の力(「銭権」)の優位する状態は明らかに、社会にとって平(均衡)を欠いていますし、社会の均衡状態を歪めています。それはグローバリズムが進展した、この20年問の現実が指し示しているでしょう。私たちは格段に社会的格差の広がった現実を手にしたのですから。

ようやく「市場は真空では機能し得ない」という観念、つまり、市場は社会的、制度的諸条件のなかで機能している、との認識が力を得てきました。米国流のウルトラ.リベラリズムとは一線を画さなければならない、という自覚です。これは私たちが社会経済の民主的な管理と、ありうべき社会経済の諸条件をどのようにつくるべきか、という問いにつながります。梅園ふうにいえば、三事の自覚です。利用厚生によき道を得て、徳を正す方途を考えることでしょう。

『価原』の発想を引き継ぐもの

いま世界的に、貨幣部門の誤った作用を問題ζ貨幣権力一「銭権。一を崇拝し(「銭神」)他者を収奪しうる強者の理想から、社会的な公正が維持されるシステムヘの変革を目指す動きがみられますそれは地域通貨と呼ばれ、貨幣を梅園のいう舟や車のごとき交換の媒介物としての職分に限定しようとする試みです。貨幣を再び人間の経済に役立つ道具とすることで、カネに支配されるのでなく、人間がカネの主人である、という状況を取り戻そうとする動きでもあります。「乾没」とは、梅園がカネ稼ぎに心を奪われた銭の精神をいう表現です。そこでは人間は貨幣の奴隷です。再び貨幣を人間に仕える召使いの地位に置き、六府が人間生活で尊重されるべき本位でなければならない、とする思考が地域通貨というかたちで世界的に出てきています。

また、金融のグローバル化が進展した80年代、90年代の20年間を注意深く見てみますと、この時期がまた、投資の倫理性を問題にし、銀行が相手にもしないような人々に自律的に仕事や雇用を創造しようとしたオルタナティブな民衆レベルの金融プロジェクトが発展、多様化してきた20年間でもあることに気づきます。そこに共通している特質は、金融グローバル化のプレーヤーたちとは極めて対照的で、場合によっては、対立さえ形成してきたようにみえます。地域社会に根ざし、強欲な金融仲介業者が省みない地域経済に資する道をさぐり、銀行などが相手にさえしない人々に融資の道を探ろうとする金融プロジェクトは、いま各地でさまざまなかたちで発展し多様化しています。そこには金融の社会性を追求する意志が貫かれています。梅園の游手に対する鋭い批判は、確実に甦っているといえましよう。

地域通貨やオルタナティブなバンキングの取り組みは、北の先進諸国でも南の発展途上国でも展開されてきています。途上国では、マイクロクレジットの実践が貧しい人々にその境遇を突破する重要な機会を提供してきたことは、よく知られています。先進国においても、市民的レベルでの、数多くの金融改革の実践が、登場してきました。グリーンドルの実践で知られるLETS(レッツ)が有名です。ソーシャル・バンキングの実践も多く存在します。また、明確に現行の通貨システムと競合し、独自通貨を発行して取引を組織する「中立貨幣ネットワーク」のような実践も、取り組まれています。また、ある国のグリーンバンクの実践が、環境維持的なプロジェクトヘの融資に特化した金融機関を作り出す方法を探求している他国の運動に参考にされる、といったかたちで各種の交流も起きています。

さらに、先端的な電子ネットワークを活用することで、バーターが持っていた高い取引コストや情報コストを回避し、国際的な事業者の貿易取引を仲介する機関も展開されています。

多様なこれらの運動に共通している特質は、新自由主義の推進する途方もない貨幣の独裁に対するオルタナティブを生みだし、広めようとの意志であるように思われます。この間の金融自由化のなかで民主主義が失ったものは多く、これを取り戻すことは、投資家や投機家、資本家の権利なるものに対抗して、諸国民の主権性を回復することです。それはもちろん、地球的次元で民主主義を作り出すことにもなります。いま市民たちは、金融のグローバリズムによって迷い込まされた世界を自覚し、地域と勤労に根ざす新たな取り組みを始めました。その基礎には、「人々六府の眞貨たるを覺り」、「今は唯六府の運(はこび)となるべき金銀、還りて主とな」っている状態を変革しようとする意思がみられます。『価原』の精神が息づいている、といえるでしょう。

経済アナリスト(経済恩想史)

参考文献

森野栄一他、『エンデの遺言』、NHK出版、2000年2月。
森野栄一、「補完通貨と貨幣利子批判の論理マルクスと貨幣理論」『情況』、2000年3月号。
森野栄一、「地域通貨連帯と信頼のお金(1)(2)」『社会運動』、第2129号、市民セクター政策機構、2000年1月、3月。
森野栄一、「金融のグローバル化とオルタナティブの視点」『情況』、1999年三月号。
森野栄一、「情報資本主義と金利生活者の繁栄」『情況』、1998年8、9月合併号。
森野栄一、「"日本的システム"と資本の国際主義」『情況』、1998年7月号。
森野栄一、「金融のグローバル化にみる不安定な構図」『情況』、1996年6月号。
丸山真人・森野栄一、『なるほど地域通貨ナビ』北斗出版2001年8月

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