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金融のグローバル化とオータナティブの視点

:: Morino,Eiichi

ネオ・リベラリズムは死んだのか

 共産主義や官僚統制型の経済に対して、自由な市場経済が驚異的な効率性を実現していることは異論のない事実である。しかし他方で、貨幣の取引システムに潜む欠陥によって苦しんでいることも事実だ。

それはとりわけ、この間、新自由主義イデオロギーや規制緩和、市場万能論などの隆盛とともに、世界大に拡大した金融のグローバリゼーションがもたらした災厄が、昨年9月のヘッジファンドの一つ、LTCMの行き詰まりに象徴される金融危機によって誰の目にも明らかになったからだ。LTCM、つまりロング・ターム・キャピタル・マネジメントという、二人のノーベル経済学賞受賞の経済学者が支援するこのファンドの名称が長期資本管理とは、冗談が過ぎるとしかいいようがない。国際的な短期の資本フローの代表格であるこのヘッジファンドがロシアに波及した金融危機で、米国政府の救済を受けるまでに1000億ドルを優に超える損失を発生させるギャンブルを展開していたからだ。

かつて、1910年から1919年にかけてイングランド銀行総裁を務めていたヴィンセント・ヴィッカーズは「短期の資金で利益をあげるのを仕事にしている者たちは短期の展望をもちがちである」といった。この言葉の通り、97年7月、タイから始まった激震はマレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、韓国を経てロシアにまで及んだが、その度に、通貨の暴落や動きの速い短期資本の、まるで羊の群のごときパニック状況をひとは見せられてきた。そしていま、昨年11月に財政再建を条件にIMFなどの国際金融機関から450億ドルもの支援を受けていたブラジルで、有力な州の知事が対政府債務の返済停止(モラトリアム)を表明したことから、昨年から続く資本逃避に拍車がかかっている。ちょうどいま、信用不安にうろたえ、日に10億ドルを優にこえる資金が流出している最中だ。

昨年から今回のブラジルの金融危機発生までの一時期は、97年の7月以来の世界各国を襲った金融危機が過ぎ去ったようにもみえ、小康状態を保っているかにもみえた。こうした相対的に平静な時期は国際的な短期資金の動きを問題視し、これまでのIMFなどの国際金融諸機関の諸欠陥を改革しようとするにはよい時期だと判断するひとたちもいた。しかし、グローバル化した金融市場は、そうした、人々の意識次元での変化とは無縁に、相変わらず金融市場が、今日、もっとも神聖にして侵すべからざる警察官であり続けていることを示している。たったただいまも、世界経済は金融市場の利害と基準にしたがって、これにおのれを適用し、振る舞うように強いられているのだ。

ブラジルでは以前、2700%にまで達したインフレを抑えるために、高金利政策を採用し、ドル資金を引きつけ、レアルの価値を維持し、低インフレを実現するという経済プログラムが採られてきた。しかしこれは景気後退を招き、失業率は8%を記録、今年は12%を記録するのではないかと予測される状況となった。政府自身もブラジルの国民総生産の8%にあたる財政赤字を抱え込むこととなり、労働組合や大企業がスクラムを組んで政策の変更を主張しているところであった。こうした状況に市場が下した判断は資本の逃避である。当面、レアルはフロートするにまかせ、速やかにブラジル経済の新たなコースを示す政策が発表されるようだ。当地の株式市場ではこれを見越して株価指数は上昇しているようだが、アジア通貨危機でもそうであったし、先行きは誰にもわからない。いまブラジルは97年のアジア通貨危機のような金融崩壊を避けるためにもがいているが、中央銀行総裁の辞任と通貨に対する投機が同国の通貨価値を下落させるかもしれないとの不安のなかに置かれている。ここにも政府と国民が国際金融市場に翻弄されている現実がある。

しかし、そうした現実のなかでも、金融市場が経済を判断し、管理するただ一つのあり方であるのか、また、新自由主義や規制緩和論が主張してきた市場万能論が最良であるかどうかを問題にする傾向は強まるばかりである。振り子は着実に戻ってきている。それは1929年の大恐慌の光景が幻影となって投資家や政府関係者に再び現れ始め、市場のグローバル化が金融・経済危機という体制次元の危機をもたらすかも知れないという懸念を生じさせているからなのか。それとも、資本の活動の自由を求める規制緩和論が、フリー、フェア、グローバルというスローガンを世界標準として押しつけ、資本の活動に対する公的制約を減少させ、強者の論理をいっそう通用させようとする傾向があったため、これに反発する市民などの運動が世界各地で生まれたが、そうした運動の成果によるものなのか。

おそらくその二つとも真実であろう。

特に、後者の成果を象徴するのは、この3年間、OECD諸国の枠内で交渉されてきた多国間投資協定(MAI)の交渉停止であろう。金融市場のグローバル化、生産の国際化、市場の広域化によって資本にとって障害のない利潤追求の条件を取り決めることにその本質があったわけだから、その交渉停止は世界中の各種の運動集団の紛れもない勝利なのかもしれない。

しかし、MAIを求める動きはやむことはないだろう。つい最近も、英国下院の貿易産業委員会のMAIに関する報告書では、「われわれは国境を越えた投資の流れを奨励するような風潮を確立する必要があり、これは英国の利益でもあるし、強力で安定した世界経済を促進するのに役立つ。MAIはもはや協議されないが、これを巡る諸問題は残されており、取り扱われるべきなのだ」と述べている。多国間投資協定への願望は消え去ることはないのだ。同報告書も表明しているように、1995年から1998年まで交渉が行われたMAIのテーマは今後、WTOの場で取り上げられていくことになるはずだ。これは世界各国の市民にとって気の抜けない事態が相変わらず続くことを意味している。

この20年間というもの、金融のグローバル化が経済上の不安を募らせ、社会的不平等を拡大してきたことは各国の市民、労働者からみれば、明白な事実であった。さらに、それは国によっては、人々の選択する権利や民主的諸制度、公益に責任を負う国家主権を歪め、貶めてきたとさえいえる。そして風向きが変わるまでは、多くの論者たちによって、こうした世界の変化があたかも自然法則であるかのごとく主張され、市民やその代表たちは自分たちの運命を決定する力を奪われてきたともいえる。そうしたなか、国民的な、また地域的な、そして国際的な次元で、新たな規制と統制の手段を作り出すことでこのプロセスにブレーキをかけることが緊急の課題であるとの意識が生まれてきたのも当然の成り行きであった。世界的に南北の格差を拡大し、各国のなかでも貧者と富者の所得格差を拡大する自由化とそれを導くイデオロギーは、一面で、社会的なフラストレーションを蓄積し、社会的な内爆の危険性を増加させ、他面で政治的絶望をもたらし、各国の社会経済に二重の脅威を生み出してきたわけだから。

だが、こうした状況のなか、各国の勤労国民がこれからどう考えていくべきか難しい状況 に置かれていることも事実だ。というのも、投資家や事業家、政治家たちの危機意識と彼らが提起する解決策は大きく報じられもし、一見、生活から遠く感じられる国際金融の今後は彼ら固有の領域として、勤労国民には関心を喚起しにくいという事情も指摘できるからだ。

他方で、この間の各国の政治家、当局者、そして有力投機家の振り子の戻り方はかなりのものだ。それを象徴するのが、今年早々の、AFP電、AP電がそれぞれ伝えた、IMFのナンバーツー、スタンレ−・フィッシャーと投機家のジョージ・ソロスの発言である。フィッシャーは、必ずしもIMFの見解でないとしながらも、「この5年間の危機が国際的な経済構造の主要な諸欠陥を明らかにしたのだから、経済の指導者たちは、国際的な最後の貸し手としての役割を将来果たせるような解決策を緊急に考慮しなければならない」として、IMFが国際金融危機においてラストリゾート(最後の貸し手)としての役割を果たせるような、国際的な中央銀行に似た組織に改編されるべきだと述べている。また、ソロスも、世界中の経済を破壊する新たな金融危機を防止するためにIMFがグローバルな中央銀行へと変革されるべきだと同趣旨のことを述べているのだ。

かつて、ファシズムと共産主義の暴力から東欧を逃れ、英国でカール・ポッパーの弟子となり、「開かれた社会」の支持者にして伝道者となった彼の豹変ぶりに驚くひともいるかもしれないが、彼はこう言い始めているのだ。「マーケットは次々に経済に打撃を与える破壊用の鉄製ボールのように動きうる」し、「この動きはまったく避けることができないが、管理のもとに置かれる必要がある」と。この間の危機が彼に大きな教訓を与えているようだ。「グローバルな金融市場がもともと不安定なものであれば、われわれは強力な規制の枠組みを必要としている」。「われわれはIMFを国際的な中央銀行に似ている何かに変える必要がある」。そして「健全な経済、金融政策を維持する諸国にのみ、最後の貸し手として保護を与えるべきで」、そうでない諸国はこれまでと同様でよいとしているが、各国の当局者と同様、金融危機においては、貸し手の側の責任も問われるべきで、IMFが放漫な投資を行った国際的な金融機関にも条件を課すべきであるともしている。このことは、アジアやロシアの金融危機に対するIMFの救済パッケージ、10億ドルが放漫な投資をした国際的な銀行の救済に使われたこと に対する批判を考えれば、ソロスでなくとも当然なことではある。

こうした期待が寄せられながらも、いまIMFの評判は、昨年8月「ザ・タイムズ」が述べたように、1944年の創設以来最低で、すこぶる悪い。経済危機の各国を「救済」しようとしたIMFの介入の結果は惨憺たるものであった。角を矯めて牛を殺すかのごとき、緊縮財政の強要や懲罰的ともいえる高金利の適用は批判を生み、そうした、かたくななIMFの「原理主義的」対応には、アジア金融危機以来、反省も生まれてきた。だが注意しなければならないのはIMFの政策の基本がそれによって変わったわけではないということである。アフリカ諸国をみればそれがわかる。方向の変化はみられないのだ。相変わらずそこにあるのは、IMFや世界銀行、そして国際的な銀行団などが貧しいアフリカ諸国に「構造調整プログラム」を強要し、これに固執する姿である。それは、財政支出を削減させ、各国の社会生活に不可欠な、教育や保健衛生、環境保護などの水準の切り下げを強要し、民営化を通した官営事業のダウンサイジングの実現、労働者の賃金の抑制、貿易自由化の要求、環境的にも持続不可能な資源開発の推進などを迫るものだ。景気後退を不可避にもたらすような政策の強要は最貧国の最貧困層に最 大のダメージを与えるように作用し続けている。このプログラムが強要され続けるプロセスは所得の悪化と富の不平等が進行し続けるそれと同義といってよいのだ。

こうした現実のなかで、揺れ戻りはじめた振り子は今度はどこに振れていこうとしているのか。

「秩序ある」自由化なのか

 グローバル化する金融市場を見てきて、常に脳裏をよぎる文言があった。それはブリティッシュ・ファシズムの論客の一人、A・K・チェスタートンが、ブレトンウッズの最終協定が成立するさいに、これをウォール街の金融業者たちの勝利と批判した著作、『貨幣権力の脅威、金融による世界統治の分析』の冒頭の言葉だ。

「貨幣は権力の概念でのみ理解されうる。消費者の掌中では財に優る力であり、創造的な資本家の手の中では、財の生産手段に対する力である。金融資本家、あるいは金貸しの扱うところでは、生産者と消費者にのしかかる権力であるばかりか、また諸国民やその政府に対する権力でもある。」

いまようやく金融のグローバリゼーションが諸国民とその政府に行使している権力について、そしてまた、その与える影響について多くの人たちが懸念を持ち始めるようになった。これを管理することにひとは関心を寄せ始めたのである。その直接の契機は、アジア諸国家での金融危機が世界中に拡散していくことを阻止することができなかったという事実であり、これが、この数十年の世界的な経済の安定性に対する最も重大な脅威であったという認識であろう。諸国民にとっても、政府当局者にとっても、グローバリゼーションのプロセスを管理できないものかという意識が生まれているようにみえる。またそうした意識は、この間の経済のグローバル化がグローバル化した経済自体を脅かす性格をもっていることから、ソロスにみられるように、市場参加者のなかにも拡大している。

だが、当局者や市場参加者が、市場開放と民主的な資本主義なる米国が他国に尊重するよう強いてきた自由市場の原理まで否定しようとしているわけではないことは注意されてよい。純粋に自由な貿易やグローバルな競争を維持しうる金融諸制度や貨幣メカニズムは、あいかわらず彼らの原理であり続けている。彼らの関心は、国際金融システムの欠陥による通貨情勢の混乱によって、これからのグローバルな経済のパフォーマンスが浸食されることのないよう、システムを組み立て直すというところにある。彼らは、経済業績を尺度する基本単位の価値、すなわち貨幣の価値を決めているのが事実上、外国為替市場における通貨の投機家たちであるという現実の前で、国際金融市場に置き去りにされた状況からの失地回復を、金融危機の救済と市場の管理によって果たそうとしているともいえる。

こうしたことは、IMFの改変の提起が経済危機の管理に関連していることを考えてみればわかる。彼らは、自らの主導性のもとで、巨額利益がでるかと思えば、次は大きな損失がでるような市場の裁定の荒々しさを緩和することを狙っているわけだ。最近の東南アジアでのIMFの介入が示したように、危機の解決策は巨大な国際金融機関のためであって、決して各国国民のためにではなかった。誰がみても、ヘッジファンドや西欧の大銀行が問題であることは事例に事欠かないのに、実際は、各国政府はこうした巨大な機関を生き延びさせようと望んでいた。内国的にも、国際的にも理屈はいつも、つぶすには大きすぎるということだが、こうした救済の経済的な、また社会的なコストは、LTCMもそうであったように公的融資や大金融機関の間で負担されるが、制度的なシステムの危機、すなわち信用秩序の崩壊、世界的な金融危機を糊塗する必要性から、新自由主義者によってさえ黙認される程度の救済策にすぎなかった。

このへんの事情をよく示しているのが、いわゆる「秩序ある」自由化イデオロギーである。これは、グローバリゼーションに関し、これを推進する米国に対して若干、離れたスタンスをとってきた諸国の考えである。そしてこれは、各種の国際会議で大方のコンセンサスをうるものとなってきている。このイデオロギーはもちろん、この間の規制緩和が支持することができない類のグローバリゼーションを生み出したという基本認識に立脚してはいる。そのスローガンは、フランスの当局者がいうように、「市場は真空では機能し得ない」というものだ。市場は社会的、制度的諸条件のなかで機能しているとの認識に立つわけで、米国流のウルトラ・リベラリズムとは一線を画している。この点では、市民的立場とも視点を共有している部分もあるといえるが、問題は具体的な彼らの認識と、どのような解決策をめざそうとしているかにある。

グローバリゼーションに関する彼らの認識はおおよそ次のようなものだ。この間、めざましい規制緩和が、金融の分野でも、以前は公企業が独占していた電気通信や航空などの分野でも実行された。平行して、国際的な規制も為替市場や競争政策、銀行監視について着手されてきたが、各国での規制緩和と同時に国際的な規制の創造は萌芽にすぎなかった。萌芽としかいえないのは、金融に関して、国際的規制が不十分にしか進展していないからである。アジアの通貨危機以降の危機がこれを示している、というのだ。

では金融危機と戦う方法はなにかといえば、多くの貯蓄を有する豊かな成熟した諸国家と貯蓄が少ないが活発な投資意欲が存在する新興諸国の間で融資を組織的に行うことだという。融資の流れを組織する必要があるし、それが経済発展にとって効果的である、と。しかし、これまでのような金融市場の突然の動揺があるとシステムが機能不全を引き起こしてしまう。外国為替市場には毎日管理されざる1兆5000億ドルもの資金が動き回っているが、資本の動きのなかで途上国向けの融資はどれくらいなのかといえば、こうした取引のなかでささやかなものだ。新興諸国家全体でも、純額で年間200億ドルくらいのものである、と。ところが新興諸国では金融インフラの整備が遅れていた。投資家たちは96年に新興国に殺到したが、そうした投資を受け入れることを可能とする国内の金融インフラを整備してから資本を流入させるべきであった。しかし結局、投資家は97年から98年には我先に逃避することになった。これは当該諸国に多大の経済的な、また社会的な犠牲を強いることとなったし、成長の停滞を通して先進諸国にも跳ね返った。市場を十分に機能させるには社会経済的な諸条件を整 備する必要があり、現在の危機が示しているのは、なによりも米国流のウルトラリベラリズムの失墜だというのである。したがってその基本認識は、市場には新たな規制が必要なのだということになる。

そこで、では彼らは、米国の意向のなか、相変わらずIMFが自由化を押し付け続けている状況において、どのようにして金融市場に対する管理を強化しようと考えているのか。彼らからみると、IMFと同基金への拠出国はあまりに急速な自由化や無条件の資本移動を勧告する誤りを犯している。そこで、軽率さの危険を避けるためにも、銀行監視のための公的機関をあらかじめ整備するなど、秩序ある自由化論がでてくるわけだ。そこには当然、貸し手の側の問題も取り上げる必要性が含まれる。先進国の金融機関はすべて、その活動を明らかにする義務を負うべきだということになる。それがあってこそリスクについて最良の知識をもちうるのだし、そうした透明性はハイリスク、ハイリターンを狙うヘッジファンドにも適用されるべきだとされる。リスクを取りたい者はそのうえで取りたいリスクを取ればよいというのだ。こうした通貨や金融市場の透明化を要求し、監督する主体はどこかといえば、さまざまな機関が銀行や証券会社、保険会社を監視すべきだというだけで明瞭ではない。だがこうした考えに沿って、先にフランクフルトで開催されたASEMの場でも国際協議が行われている。

要するに、もはや、自由な市場か管理された経済かという選択肢を立てる時期ではないというのが彼らの感じているところである。選択肢は規制のシステムを欠いた市場なのか組織された市場なのかにある、と。だが組織された市場とはどのような市場であるのか。公正な貨幣システムを指すのか。それは必ずしも明確ではない。彼らの視点、どのような市場もなんらかの制度的条件のもとで機能しており、こうした条件はなによりも市場参加者が準拠すべきものであり、そしてまた参加者による監視のシステムでもある、市場が暴走するときにはこれに介入するシステムでもある、との議論は当面大方の首肯するところであろう。また、市場が良好に機能するのを保証する国際的な規制がなければ、社会的混乱を引き起こす危機が繰り返されるとの懸念も共有できるひとがいるかもしれない。

では、彼らがいうように、新自由主義のファンダメンタリズムを揺るがす危機が繰り返し発生したのだから、国際金融の発展と安定にとって必要な規制が実行されるべきときにきているとして、そのためにどのような国際的な枠組みが考えられるのかというと、それだけではないにしても、彼らの場合、やはりIMFへの期待がでてくる。彼らから見ると、IMFは米国に操られている。しかし、確かに米国は主要な出資国であるが、他の先進諸国も重要な役割を果たしている。IMFを市場に規則を与えうる真の機関に変えていく道が探られるべきであり、そうでなければ、通貨システムの無秩序がグローバルな経済に脅威を与え続けていくというのだ。

しかし、一般的な印象では、IMFは国際的な通貨改革について議論することをためらっているようにみえる。自由貿易と自由な資本移動を促進することは世界経済にとって利益であるのに、世界経済を機能障害に陥れてしまう通貨システムが放置されている。だがIMFは米国の意向次第であろう。IMFのフィッシャーや投機家のソロスの発言をみると、おそらく米国も各国国民経済のレベルでは相変わらず自由化、規制緩和を求めるものの、国際的レベルでは短期資本フローを管理するという考えをもつに至っているのではないかと考えても間違いはなさそうだ。なぜなら、米国は当然、昨年のLTCMの危機のようなことを起こさないためにも、規制や管理は国際的に行う、その際、そのための新しい国際的枠組みを作るよりは、自分の意向を押し進めやすいIMFを強化していき、自らが主導権を握って国際的な中銀の機能を果たすものに変えていくことがその利益にかなっていると考えるのが自然だからだ。

ブレトンウッズ体制のなかで国際資本フローの監視などを目的として作られたIMFは、じつは1971年の金ドル交換停止以来、その国際的な制度的根拠を喪失した状態にあるといってもよいが、その後も、出資額に応じた投票権をもって運営されることで、米国の利益を推進してきたのが実態であり、金融のグローバル化も推進してきた。そしてそのゆえに、ワシントンのダウンタウンにあるIMFは途上国の怨嗟の的になってきたのがこの間の歴史というものだ。したがって、より根本的に考えるなら、IMFは、あらゆる国民通貨がドルと固定したレートで交換性をもち、ドルが金とリンクされていた、1971年以前の固定相場制の時代に、こうしたメカニズムを監督するものとしてブレトンウッズで準備されたわけで、国際的なラストリゾート、秩序ある自由化を考えるなら、IMFの役割を議論する前に、どのような国際機関が必要なのかが検討されねばならないはずだ。しかし、秩序ある自由化論はそうした方向に進む力はないようだ。

ブレトンウッズ体制は周知のように、第二次大戦後、国際的な資本フローを奨励し、各国が外国の投資と国際貿易でその経済を再建するという名目で作られた。それは 、戦前の、特に大恐慌に至る10年間ほど、世界市場での輸出競争力を維持するために通貨の切り下げ競争が展開され、結局、世界的なデフレに突入したという事実の反省に立っていたとされている。かつての世界的なデフレは外国製品の流入に制限を課す保護主義的反発を多くの国で生み出し、関税障壁で守られた諸国を作り出したのであった。

そうした方向を向いているかにみえる現象は、今日でもみることができる。例えば、米国では昨年、ドルに対して劇的な下落を記録した通貨をもつブラジルやロシアのような諸国の低廉な鉄鋼製品の流入によって、米国鉄鋼業が打撃を受けたとして、不公正競争との抗議の声があがった。こうした事実は、再び、安定した通貨システムが確立されるべきとの声を強くするだろう。そうして、それが欠けている状態でこれからのグローバルな経済の回復を想像することはできないとの主張を生むことだろう。われわれは永遠にラストリゾートの世話になり続けるわけにはいかないとの声もでるかもしれない。現実は問題を根本から再考するよう促し続けているようにみえる。そして市場も、例えばいま、ブラジルで投機家に対抗し、通貨を維持するための取り組みがなされているが、IMFがラストリゾートとして期待されるなら、果たしてどの程度の救済案を実行するのか見守っている状況だ。従って、秩序ある自由化論が大きな構想力を示しうる時代環境にあるといってよいのに、旧来の延長線上に止まっているのが、いまの実態のようなのだ。

各国市民のみるところでも、やはり「秩序ある」自由化は、米国のファンダメンタルな自由主義に対抗するに十分な構想力をもっているようにはみえない。では、他に選択肢はないのか、となる。

トービンタックスはどうなのか

 ひとによっては、マーレーシアのマハティール首相の対応を評価するかもしれない。グローバル化した世界にあって米国の一極支配を公然と批判し、同国は、昨年9月、「国際社会がヘッジファンドを規制し、国際金融市場が秩序を取り戻すまでは維持する」として、ドルとマレーシア・リンギとの固定相場制を導入した。そして、アジア通貨危機の一因となった94年の中国の人民元の切り下げが再び実行されたり、円高になったりするようであれば、自国の競争力維持のために対ドルレートを調整するとして、国家レベルの資本規制策を打ち出したわけだ。これは、国家レベルでは、米国流の自由化に対立しない「秩序ある」自由化論とは異なり、一歩間違えば、通貨切り下げ競争の時代への回帰になりかねない。彼の、IMFは現地の社会経済の現実を見ず、金融面からばかり見て、かえって状況を悪くしているとの批判は、まったく当を得たものであるが、国際的展望を欠いている印象があるだろう。

ところが、ユーロ実現に沸く欧州をみると、いま、フランスなどで、市民的レベルで、署名活動まで展開されているほどに盛り上がりを見せつつある一つの取り組みが存在する。トービンタックスがそれだ。 投機資金が国際的に流れる場合、為替相場に売りや買いとなってあらわれる。こうした取引は、通常の財の取引に比べ、その取引コストは格段に低い。一般に、通常の財の交換においても貨幣が媒介することによって、バーターと比較した情報コストや取引コストは格段に節約しうるものとなる。社会関係財として貨幣はそうした情報節約的、取引コスト節約的な効果をもっている。ところが取引が、そうした社会関係財同士の取引となる場合には、さらに取引コストは低いものとなる。それに加えて、国際金融市場の場合は、情報化の最先端をいっている。情報化によって、取引コストの縮小傾向は、極端な場合、ゼロにまで近づきうる可能性まで与えられる。外国為替市場のトレーダーたちが、まったくわずかな利幅を追って取引を繰り返し、神経をすり減らす作業に従事しているのがこれを示している。もし、いちいち取引相手や、売り買いの注文を出す市場の克明な情報を、通常の取引のよう に収集し、取引相手に応じたかなりのリスクを負わねばならないとしたら、彼らの取引の多くは実行されないだろう。

この事情が、金融取引を常により短期の取引へと傾斜させる一つの根拠にもなっている。ケインズの時代から主張されているように、こうした金融取引の取引コストを高くする、つまり税額を課すことで高くする、そしてこの税額分を何らかのかたちで公的に再配分することで、貨幣取引に関わる資本利得や利子稼得などの配分の公正を計ることは貨幣システムの最適化を考えるさいに重要なアイデアのひとつであった。

トービンタックスを巡ってはその推進を願うひとたちの間でもさまざまな議論があるが、為替相場における通貨取引に対する0.1%、決済利益に1ないし2%、あるいはそれ以上の課税を実施し、通貨投機を抑制しようとの提案は、いま各国の市民、勤労階級の関心の対象にもなってきた。

97、98年の通貨、金融危機の国際的伝染を目撃した彼らには、新自由主義の政策の試練のもとにおかれ、苦しい生活を強いられる諸国民の労働や生活にそうした世界的な金融の不安定性が大きな影響を与えている状況のなかで、なによりも短期の金融取引への課税という観念が生まれ始めているのである。彼らは、トービンタックスが有害な金融市場の不安定性を減少させる手段と評価し始めたのだ。もともと、J・トービンによれば、トービンタックスは通貨に対する投機のメカニズムに冷や水を浴びせることを狙いとしている。ささやかな意図にすぎないが、大きな結果を期待できるものだ、投機のメカニズムに水をかけることで、それだけで、危機を回避しうるものではない。しかし、金融の不安定性を減ずることで、それは予防的な効果をもつであろう、という。

これまで、金融危機についてはIMFやG7は各種の改革案を提起してきた。しかしどれも、「新興」経済に関するもので、新興諸国家に一方的に努力や犠牲を要求するものであった。ところが、トービンタックスは、地球上のあらゆる国家に関係する。なかでも、豊かな先進国が始めることで、そのイニシアティブは影響力をもちうる。なぜなら為替相場で動く通貨は金融の中心にあるともいえるからだ。これが市民的活動家たちのトービンタックス支持のいちばんの理由である。

彼らによれば、このような税の適用は資本市場の不安定性に直面して、その国際的な公的管理に着手する必要性を明確にする効果が期待できるという。つまり、この税そのものは取るに足らないものだが、それを入り口として開かれる展望はかなり構想力にあふれたものだ。人々の意識に、国際的な公共性という観念を持ち込むことの意義が自覚されているからである。投機マネーへの課税の直接的な効果は、金融市場への諸国家の依存を減少させ、危機が不可避であるような現在の市場の傾向を方向転換させることが期待できる。と同時に、ドルやユーロといった主要通貨は為替相場の媒介通貨の役割を果たし、ハードカレンシーとしての地位を占めている。しかし、トービンタックスはそうした通貨間の差別に無関係であり、無差別に扱う。そしてこの税を巡っては国際交渉が不可避となるし、交渉を介した調整プロセスは、全世界の諸政府を統合していく普遍的使命までも自覚させるに違いないとされる。G7やG10などの狭い範囲で非民主的に主張されてきた議論とは異なるというのだ。

トービンタックスは国際的な公の観念を持ち来たす。つまり短期の為替取引に対する課税が私的な取引関係とは異なった、公的な関係と私的な関係の間の一形態であるとの観念である。したがって、為替取引への課税は、これまでのどのような対策ともことなって、投機を穏健化させ、短期資本取引の動きを管理することを可能とするであろう。また、経済の主要なプレーヤーに対する強力な政治的警告にもなるであろう。こう期待する市民的活動家たちには、公的利害は私的利害や国際的投機に勝るものなのだという信念を見つけることができる。

こうした信念は、この20年間、グローバル化してきた資本主義と対立する意識にまでたどり着いているようにみえる。あるいは新自由主義を批判し対立する意識にトービンタックスが結合しているともいえる。彼らの分析では、規制緩和と資本のリストラクチャリングをとおして、新自由主義は資本市場の経済的、社会的権力を増大させることに成功したし、これは新自由主義自身、成果としているところだ。また証券市場の規制緩和による「良好な」管理運営が、一国の付加価値の配分につき、労働所得よりも資本所得に多くが配分される結果をもたらしてしまった。そして多くの国で、資本課税の軽減が労働所得に対する増税を伴っていた。こうした労働所得に対する圧力は世界的に、これに従わなければならないような不可避な現象として現れた。こうした認識は、新自由主義イデオロギーが共産主義なきあと、ただ一つの思想として主張してきた「常識」に活発な批判を展開させることになった。

「資本が富の産出者である」、のではない。彼らは、ロバート・ソローが、資本が先進国のGNPの増加に影響をもたないことを示した研究に注目する。そこでは、これに貢献する唯一の要因は技術と科学における進歩であるとされている。また。「資本は欠乏状態にある」、わけではない。国際的な金融諸機関は、開発資金を必要とする発展途上国に対して常に、資本への飢餓状態が生まれるようにし向けてきた。しかし今日、欧州でも北米でも日本でも資本は過剰である。多くの数字がこれを示している。あらゆる部門で過剰な投資が存在しているのだ。問題はその配分にある。「利潤が経済の目的である」、わけではない。勤労国民からみて、その国の生み出す付加価値の、配分が公正であるかどうかが問題だ。高い付加価値を実現している国家も、労働への分配率が低い国は貧しい。調査が示すところでは、賃金のかたちで分配された付加価値と生活水準のあいだには強い相関性が存在するのだ、などなど。

こうした見解に立つ彼らにとって、トービンタックスは、わずかだが、貨幣に対する投機の利益を減ずることで、労働の犠牲を強いるネオリベラルの宿命論やそれを指針にする経済に反撃の糸口を与えるものなのだ。なによりも、その効果が大きな政治的インパクトをもつと期待されているのである。

誰がみてもトービンタックスを否定するのは容易なことである。それは100年以上前から欧州人が思い描いてきた欧州の統合や統一通貨の実現をいつの時代にも簡単に否定しうる人間がいたように、容易なことである。だがユーロは実現した。多くの問題を抱えながらも、現在は、一つの現実である。だから、トービンタックスを否定しようとする者は、別の解決策を示すことによって、あるいは彼らとは違った構想力を示すことによって判断を提起すべきなのだろう。

もちろん、その運動のなかにも各種の議論がある。トービンタックスのようなわずかな税を課すだけで、はたして短期的投機資金の動きをどれほど抑制できるものなのか、効果は期待できなかろう、とか。いや、この税のもともとの目的は世界の貧困をなくす資金を集めることにあるのだとか、さらには、投機の様々な水準に応じて可変の課税率を決定する技術的手法を巡る議論も多彩だ。また、各国で国民の雇用を作り出している輸出産業が為替リスクをカバーするための為替取引にまで障害となってしまうのではないかとの懸念も表明されている。貯蓄を持つ者が取ろうとしないリスクを金融業者が取っているともいえる。したがって、問題は資本の動きにブレーキをかけたり、反対に容易にしたりすることにあるといえるのかとか、議論は尽きない。彼らは近々、フランスで世界各地の専門家も集めた会議をもつということだ。

ところで、トービンタックスを巡っては注意しなければならない点がある。それは、これが実効的に実施される現実的な局面を検討していくと、IMFには大いに出番がある、あるいはIMFがその管理を行うのにふさわしいという見解がでてきている点だ。トービンタックスを実 現しようとの運動が、国際資本フローの国際的管理の制度的主体を国際協調によってどのようなものとして作っていくかという問題を展望しているにもかかわらず、その先回りをするかたちでIMFが自己の正当化に利用しようとする動きもあるのだ。とかく問題のあるIMFのあり方に関する改革の議論をIMFのサイド、つまり米国のサイドからその利害にたって主導しようとする傾向のなかで、うまく利用されてしまう懸念が生じているのである。

トービンタックスを推進する運動は、これからの展開も含めて、興味深い。しかし、運動を推進する市民たちの、「闘いはグローバルである。然り。広がりにおいてではなく深みにおいて」、「われわれの抗議は資本と同じようにトランスナショナル(超-国家的)だ」という叫びを共感をもって聞きながらも、まだ別の選択肢も存在するのではないのか、と自問していることに気づく。

というのも、「秩序ある」自由化論は、国際金融市場の透明性の確保や金融仲介業者たちへの報告義務を要求し、トービンタックスは投機資金の動きに注目しているが、いま、国際金融市場ほど、電子取引が進展しているところはない。そしてそこには信じがたいほどのバーチャルな富が積み上がり、複雑な債権債務の関係が常に新たに生まれ、また清算され、それを繰り返すなかで、債権と債務の裏腹な対応関係が膨張する宇宙のように拡大しているのだ。本当に電子化された金融経済の透明性を高めたり、課税の網をかぶせることができるのか、形だけのものになる可能性もある。いずれの議論にも、こうした国際金融市場を前にした、ある種の素朴さがどうしても感じられてしまうのだ。

オータナティブの視点

 この20年を振り返ってみれば、レーガン主義あるいはサッチャー主義が国際金融システムを目覚めさせ、金融業者の力を解き放ったのであった。例えば、英国では86年のビックバンないし金融市場の規制緩和がそれである。しかし、これは強欲で貪欲な者たちにチャンスが訪れたという気分を生み出しもした。87年の株式相場のクラッシュが本来なら酔いを醒まさせるはずであったが、そこにひとがみたのは、プログラム取引という純粋な資本主義と情報社会とコンピュータ技術が融合し始めた金融市場の姿であった。それは市民の容易に想像できる世界ではないように思われたが、主に欧米では、次第に、リンダ・デーヴィスやミハエル・リドパースなどの、そこで働いていたキャリアをもつ人間たちが、そこでうごめく人間たちと彼らが展開する詐術まがいの手口を小説の主題とするようになり、金融市場の「毒蛇の巣」のような有様や、見慣れぬ金融派生商品をターゲットとする自動取引プログラムの活用されるさまなどに想像が及ぶようになった。

小説の描くところが真実かどうか、それはどうでもよい。なぜなら相変わらずこの世界は見えない世界のままであるからだ。例えば、LTCMを例に取り上げてみればよい。まず、米国の金融資産がいったいどれくらいあるのか考えてみよう。誰かわかる人間がいるだろうか。そのうち実質的な資産がどれくらいで、どこからがバブルなのかわかるひとが。エコノミストにとっては当然の事実だが、両当事者が債務の義務を負う関係に入ると、信用メカニズムによって、貨幣が創造される。さらに、デリバティブズを活用するかたちでこれが行われた場合、それは信じがたいものになる。米国での、金融派生商品を使って創造された、見ることのできぬ、無形の貨幣の規模は、M3の規模のいったい何倍になるのか、誰も想像がつかない。ただ、LTCMという一私企業が、100倍ものレバリッジを効かせることで資金調達し、1.2兆ドルものポジションを得ていた事実はこれを類推する参考にはなる。この数字は外為市場の一日の全取引額に匹敵するのだ。こうした資金が短期的な利益を追求する連中にゆだねられている。何年にもわたり、ロシアは、とんでもない利率で短期国債を発行することで、国家財政の赤 字分を賄ってきた。それはこうしたヘッジファンドの格好のターゲットだった。LTCMはロシア金融危機を読み誤り危機に陥ったわけだが、米国政府による、実に非資本主義的な、ウルトラリベラリズムとは正反対の、国家的な救済策を受けることになった。

つい最近も、別の有力ヘッジファンドの一つ、タイガー・マネジメントは対ドルで円が10%上昇したことで、たった6時間のうちに、200億ドルの損失を出した。昨年、我が国の証券市場で銀行株などのカラ売りなどを仕掛けたとされる同ファンドには溜飲を下げた市場関係者もいるかもしれないが、要は、貨幣は無から、手品のようにひねり出され、これまたマジックのように瞬時に蒸発するということだ。 問題はこうした目に見えない、だが事実上実効的な(つまりバーチャルな)流動性の供給が各国のファンダメンタルズに現れる実体経済を通貨市場が反映するのでなく、人為的な資産価値の水準を維持していることである。そしてそれは、私的な契約によって作り出されたバーチャルな富が市場における資産価格の劇的な再調整を引き起こすような振る舞いを展開しうるし、してきたということでもある。

バーチャルな富をなす金融資産のもう一つの顔は金融上の債務である。金融市場で積み上がった富は同時にとてつもない規模に成長した債務でもある。その側面が、社会経済に負荷を与える仕方はいろいろあるが、一例として、金融自由化の流れの中、一般化してきた債務の証券化という金融手法がある。これなど、債権者と債務者を分けている境界線をぼやけさせ、債務をよりソフィスティケートされたわかりにくいものに変えるものだ。証券化という債務の担保物件見返証券化は、利益の私的領有は神聖なままにしておきながら、取引者たちが取引余剰(利益)を極大化するさいのリスクの不一致を拡大し、最終的には社会に押しつけてしまおう(リスクの社会化)というところにその本質がある。

こうした資本の社会に負荷を与える金融上の手口が新金融諸商品の名の下に続々と市場に投下されてきたのがこの間の流れである。ひとは目をくらまされ、新自由主義者の理想とする、リベラルなジャングルに導かれていったわけだ。たしかにジャングルの法は自己を守る力をもち、貨幣の権力を崇拝し、他者を収奪しうる強者の理想ではあったわけだが。

しかしいま、こうした債務に基づいた経済が崩壊するのではないか、国際金融市場で繰り広げられてきたゲームは終末を迎えるのではないかという予感が広がっている。バーチャルな富の故にシステム不安を抱える通貨システムがあり、そして各国国民通貨は、もとより不換の、法律が通貨と定めた、債務証書にすぎない。それが各国政府の赤字支出をまかなっている。グローバルな経済が最終的に債務不履行に陥るときがくれば、われわれがポケットに持っているあらゆる法的な債務証書は、無価値になってしまう。もちろん電子形態のクレジットも同様だ。どの国でも銀行では取り付け騒ぎが始まり、銀行は預金者に払い出すために融資の引き上げを始め、負のサイクルが始まる。

すでに地球の40%にあたる地域がデフレに苦しんでいる。たとえ、IMFがラストリゾート化し、金融危機の解決に投機家を引き込んだにしても、こうした金融システム自体の崩壊の可能性に対しては何の解決をも、もたらすものではないだろう。昨年、世界銀行は、リセッションを引き起こすような金利引き上げによる通貨防衛というIMFの誤った試みを公然と非難した。だからといって、市場の圧力のなか、通貨需要を人為的に引き上げるため巨額の外貨準備を投入させる方策もなんの解決にもならない。要するに国際機関が、そして諸国家が市場の統制管理をいったところで、市場は異様に成長しきってしまっている。そして破裂しかかっているのだ。

そうした不安のなか、だが、希望がないわけではい。

金融のグローバル化が進展した80年代、90年代の20年間を注意深く見ると、この時期がまた、投資の倫理性を問題にし、銀行が相手にもしないような人々に自律的に仕事や雇用を創造しようとしたオータナティブな民衆レベルの金融プロジェクトが発展、多様化してきた20年間でもあることに気づく。世界各地で多様な、金融のイニシアティブを取ろうとする運動が出現してきた時期でもあったのだ。 そこに共通している特質は金融グローバル化のプレーヤーたちとは極めて対照的で、場合によっては、対立さえ形成してきた。地域社会に根ざし、強欲な金融仲介業者が省みない地域経済に資する道をさぐり、銀行などが相手にさえしない人々に融資の道を探ろうとする金融プロジェクトは、いま各地でさまざまなかたちで発展し多様化しているが、金融の社会性を追求する意志に貫かれている。先進国の貯蓄をもつ勤労者は銀行に貯金してしまえば、あとはリターンだけが関心の的というのでよいのか、それを問い、投資の倫理性、環境維持性を問題にするところまで進めてきたオータナティブな金融プロジェクトは明確に金融自由化を導い たイデオロギーと対立する理念に導かれていたのである。

こうした運動は、北の先進諸国でも南の発展途上国でも展開されてきた。途上国では、マイクロクレジットの実践が貧しい人々にその境遇を突破する重要な機会を提供してきたことはよく知られている。先進国においても、市民的レベルでの、数多くの金融改革の実践が登場してきた。有名なものではグリーンドルの実践で知られるLES(レッツ)が知られている。ソーシャル・バンキングの実践も多い。また、明確に現行の通貨システムと競合し、独自通貨を発行して取引を組織する「中立貨幣ネットワーク」のような実践も、いくつも存在する。ある国のグリーンバンクの実践が、環境維持的なプロジェクトへの融資に特化した金融機関を作り出す方法を探求している他国の運動に参考にされるといったかたちで各種の交流も起きている。また、先端的な電子ネットワークを活用することで、バーターが持っていた高い取引コストや情報コストを回避し、国際的な事業者の貿易取引を仲介する機関も展開されている。

多様なこれらの運動とその意義について、ここでは詳細に言及できないが、最大限共通している特質は、新自由主義の推進する途方もない貨幣の独裁に対するオータナティブを生みだし、広めようとの意志である。この間の金融自由化のなかで民主主義が失ったものは多い。これを取り戻すことは、投資家や投機家、資本家の権利なるものに対抗して、諸国民の主権性を回復することである。それはもちろん、地球的次元で民主主義を作り出すことである。いま市民たちは金融のグローバリズムによって迷い込まされた世界を自覚し、この情報時代にあって、地域と勤労に根ざす、そうした意味で、平板な「広がりにおいてではなく深みにおいて」、グローバルな多元的共存を目指す、もう一つのグローバル化を模索し始めてもいることを忘れるわけにはいかない。

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